心の伊達市民 第一号
浜町に「荒汐部屋」を見に行った帰りに、人形町の町をブラついた。
この町の名前は「人形師が多く住んでいた」というところから来ている。人形師がいたということは、その町の歴史を辿ると良く分かる。
1624年頃に京都から江戸に下って来た歌舞音曲の名人「猿若勘三郎が、猿若座を人形町に開いたのが江戸歌舞伎の始まりである。その後、この辺りに人形浄瑠璃、芝居、見世物、曲芸、水芸などの小屋が続々と出来た。そして人形師達もここへ住むようになったのだので「人形町」となった。
そんな歴史のある町なので、同じ中央区でも雰囲気が違う。
私の女房はここへ越して来る前から人形町が大好きで、料理教室の生徒達を連れて何度も「人形町ツアー」を開催していた。
私もその影響を受けていて、何度も人形町に来ているが、それでも飽きない町である。
今回は人形町のほんの一部だけでも紹介したい。
浜町公園から真っすぐに人形町に向かった。この道は「甘酒横丁」という名前の通りである。
なんとも可笑しな通りの名前だが、ここは明治時代に横丁の入口に「尾張屋」という甘酒屋があったことに由来している。
この通りで一番有名なのは鯛焼き屋の「柳屋」である。
その向かいに今では絶滅種のように不思議に感じる「岩井つづら屋」がある。
「つづら」と聞いて分かる人も、いまでは少なくなっていると思う。
それでも歌舞伎役者などに需要があるようだ。また外国人もお客になっているそうだ。
その先の路地を右に入ると、すき焼きの「今半」がある。
最近は近くでお惣菜屋も始めていて、「すき焼きコロッケ」が人気のようだ。
更に進み右に入ると民家のお座敷で食べる洋食の「芳味亭」があり、私は家族と行っては「ハヤシライス」を食べていた。
ところが数年前に、店は甘酒横丁に移転してしまった。それで雰囲気が違ってしまい、私は行かなくなった。「今半」の先を左折して、大通りに出る。そこには人形町の歴史を表している「人形焼き」の「板倉屋」がある。
通りの反対側に人だかりがしているのが見えた。
信号を渡って近づいてみると、丁度、正午だった。そして人形町名物のカラクリ時計が動き始めた。
集まっていた人達は、カラクリ時計の動きを見る為に集まっていたのだった。
私は何度も人形町に来ているが、この時間にこの場にいたことがないので、初めて見ることになった。
人形町には通りに2つの櫓があり、カラクリ時計の出し物も違うようだ。
私の見たのは「町火消し」の人形である。
もう1つは、水天宮近くにある「江戸落語」だそうだ。
時計の下の蓋が開き、木遣りの声と共に纏持ちが「は組」の纏を振る。そして次に登場するのは梯子乗りである。上下2段の舞台があり上の段では梯子乗りが技を見せ、上段の舞台では梯子に直角に立つ荒業を見せる。
私は写真を撮るのに夢中なので、レンズを通して一部を見ているだけなので詳細まで分からない。
カラクリ時計の動いている時間は分からないが、1分くらいだろうか?
レンズを通してでなく自分の目で見たいが、次は1時間後なので今回は諦めた。
いつもカメラを通して物を見ている私だが、「実物も見た方が良い」と、この時には思ったのである。
外国人の女性が動画を撮っているのが見えた。いま流行りのYOUTUBERか?
その先の鳴門鯛焼き本舗で「天然鯛焼き」を買って店先に座り食べたが、前回より値上がりして260円になっていた。
(おまけの話)
都営地下鉄「蔵前駅」から、図書館のある「月島駅」まで行った。
大江戸線に乗り換えるには「蔵前駅」で降りる。どちらも都営交通なので、私はシルバーパスが使える。普通は同じ都営で同じ「蔵前」ならば、誰でもホームが違うだけと思うだろう。
ところが大江戸線の「蔵前駅」は、浅草線の「蔵前駅」で降りて、地上に出る。
そして250メートルも歩かされるのであるから、「乗換駅」と言ってはいけないと思うのだが・・・。私は滅多に使わないからいいが、初めて乗った人は怒るのでは?
月島駅から地下道を進み、10番出口を出ると図書館である。
2冊の本を返し、また2冊の本を借りて外へ出た。すると私の乗る都バスが出たばかりで、走り去るのが見えた。
次のバスまでは20分近くあるので、歩いて帰ることにした。歩けば15分くらいで家に着く。
途中で月島川を覗いたら、鴨が泳いでいるのが見えた。そしてまた歩き出して勝どき交差点で赤信号になった。すると私の家に向かう「豊海水産ふ頭行き」バスが、矢印信号で右折した。このタイミングでは、私はそのバスに乗れない。
バスに乗ることを期待はしていなかったが、2度もタッチの差で乗れなかったことに腹が立った。
図書館で借りて来た「ふんどしニッポン」という本を読んだ。「ふんどし」を歴史考察している本である。たぶん私の世代が最後の「褌経験者」ではないだろうか?
私が小学生の時の水泳は「赤ふんどし」だった。女房の父親は亡くなるまで「越中ふんどし」だった。文明開化の時は男は洋服を着たが、下着は「ふんどし」だったようだ。
一番面白かったのは「学習院の赤ふんどし」で、中等部の臨海学校の3キロの遠泳ではいまも「赤ふん」だそうだ。今上天皇も中等部の時は、赤ふんどしで海で泳いでいたそうだ。
こんなことを熱心に研究している人がいる日本は、誠に平和な社会である。
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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10/08(日) ふらり旅人からのゲストハウス 自由人 小林圭子氏 〜想いと直感のままに『ポンコタン』
今回の主人公は洞爺湖の近くでゲストハウス『ポンコタン』を営む小林圭子さん。 旭川出身の47歳。 洞爺湖に移住する前は名古屋で商売をされていました。 「北海道には30代後半からバイクにテントを積み、 ふらりと旅しに来ていました。」 洞爺湖との出会いは、 2018年に「幸せのパン」の映画の舞台になったところを見てみたくて 青春18きっぷでふらりとやってきたのが初めてでした。 ところで圭子さん。 なんと言うか・・・。 「以前、どこかで会いましたっけ?」 そんな錯覚を起こさせる人です。 あの、バリアフリーな雰囲気は一体どこからくるのだろうか? 探ってみたくなりました。 旭川から札幌へ。 そしていきなりポン!と名古屋へ飛んだ圭子さんが始めたのは、 なんと”バナナ焼き屋“のお店でした。 店の名前は「パピリカ」。 それはアイヌ語で「豊作」という意味です。 バナナ焼き屋をやろうと思った理由は〜。 「小さい頃から食べていたソウルフードだったから」 ただそれだけの理由で、 古くからお菓子文化が発達している(駄菓子の製造所も多い)名古屋で店を出そうとは、 普通はなかなか考えつかない。 でもそれをひょいっと始めてしまうところが圭子さん流。 深くは悩まない。 やりたいからやる。 ただそれだけ。 そんなシンプルさが、度胸を超えた何かを感じます。 パピリカ時代のHPを見つけました。 熊が鮭ならぬバナナを咥えている姿が なんともユニークで忘れないロゴです。 何事もサラッと話す割には材料にはかなりこだわっています。 卵も牛乳も使用していないので(カスタード以外)、 卵アレルギーや牛乳アレルギーの子どもを持つ親御さんも よく買いに来てくれたそうです。 そして白餡はしっかりと手作り。 バナナ焼きと言えば旭川の名物お菓子。 この時お話を伺うまで知りませんでしたが、 旭川のバナナ焼きにもバナナそのものやバナナエッセンスなど、 バナナフレーバーは一切入っていないそうです。 バナナ焼きとは、形からだけ連想するネーミングのようです。 とても美味しそう〜! 食べたかった〜! パピリカはすぐに地元に溶け込み、 8年間営業を続けました。 その時の繋がりは今も続いていると言います。 人懐っこいと言う表現とも違う、 相手に壁を作らせない不思議な力を圭子さんは持っています。 「いろいろなところから転勤してきた人たちが多く住むところでした。 近所の方がよく買いに来てくださっていましたよ。 家賃を払いつつ、 女ひとりが食べるだけの分はなんとか稼げていました。」 「ところで、ポンコタンは小さな村という意味。 パピリカは豊作という意味ですよね? どちらもアイヌ語ですが、なにか特別な意味があるのですか?」 そんな筆者の質問に 圭子さんはまたもやあっさりと答えます。 「いや、なんとなくです。」 まただ…。 やはりこんな調子…笑 筆者はその言葉の背景を知りたい!と質問をしても、 決してはぐらかす訳ではなく、あくまでもサラッと答える。 想いが至極シンプルだからこそ、 きっとその時の直感のまま「なんとなくそうしよ」と 思った通りに動いてしまうのだろうと思います。 しかも、転機にはだいたい誰かが力を貸してくれる。 これはもう人徳です。 気負わず流れに任せるというのは、実は楽そうで楽ではない。 でも圭子さんは素直に誰かの力を借りながら、 とても自然にその技を使ってしまう。 「名古屋の友人がゲストハウスをしていたんです。 あらたに宮古島でゲストハウスを始めるにあたって、私も少し手伝いました。 その友人は度胸があるというかなんというか、 外国人が結構泊まりに来ていたのですが、英語は喋れないんです。 でもなんてことなくやっているのを見て、 私も妙な自信をつけてしまいました。 『そうか、英語ができなくても宿屋はできるんだ』 ってね。」 「その辺りから、ゲストハウスに興味を持つようになりました。 ちょうど、ふらりと洞爺湖へ足を運ぶ機会も増えていたこともあり、 洞爺湖の近くでゲストハウスをやることが ふわっとしたものから現実的になりました。 あ…その前にバナナ焼き屋を畳まないと。」 そう思った時、 店を丸ごと買いたいと申し出てくれた人が現れました。 それは元々はお客様だった友人で、古民家カフェを営んでいる方でした。 バナナ焼き屋営業終了2日後には洞爺湖に移住してしまうというスピーディーさ。 思ったらサラッと行動! その後、1年半をかけて建物をリフォームし、ポンコタンを開業されました。 「待っていてくれているような気がしていました。 洞爺湖はどっしりとしていて迎え入れてくれるような安心感がある湖だと感じています。 移住してすぐは、キャンプ生活をしながらあるホテルでバイトをしていました。 同時に物件探し。 そんな中、即決したのがこの建物でした。 借金も1000万円以上してしまいました。」 この建物は、昔、ある会社の社員寮だったところ。 なので、一部屋一部屋にトイレが付いていました。 さて、ゲストハウス「ポンコタン」は 内装・外装そのほとんどをDIYしています。 もともと建物に興味があったわけでもなかった圭子さんですが、 もの作り好きであったことが功を奏しました。 「必要に迫られた部分もありますが、 バナナ焼き屋時代に建物の内部構造にものすごく関心を持つようになりました。 そもそもは工事関係者への不満に端を発したのですが、 お陰で建築について色々知ることができました。 建物がどんなふうにできているのかを知るために、 分解しながら構造を理解していきました。 コンクリートにネジを入れるにはどうしたらよいか?とかね。」 冒頭に登場した仕切りに描かれた洞爺湖の絵は、名古屋時代の友人が描いてくれたもの。 「名古屋時代の友人たちは変人が多くて(笑) 尋ねてきては色々置いて行ってくれます。」 困ったふりをして、笑いながら話す圭子さんには、 遠くから支えてくれる友の存在に感じる安心感が表れていました。 圭子さんの仲間たちは、 「ポンコタン」のオーナーの とてつもなく自然体なおもしろキャラクターをよくご存知のようです。 「うちね。コンセプトなんてないのよね。」 圭子さん、突然、そうサラッと言った後でこう続けました。 「よく眠れました!って言ってもらえるのが一番嬉しいかな。 旅の途中で快適な時間をここで過ごしてくれたら、 それが一番嬉しい。 それとね。 今年の夏はすごく忙しかったのね。 借金あるからあと10年はやらないといけないけど、 とりあえず持続可能な宿を目指して働き方改革するわ(笑)」 「10年経ったら何するの?」 そんな問いに。 またもやサラッと 「わからないな」 と答える圭子さんでした。 帰り際 「また来て!」 と軽い調子で言われました。 「うん」 と答えてしまいました。 ポンコタンの魅力は この気安い感じなんだろうと思った筆者でした。 決して気負うことなく、 そのまんまの圭子さんが妙な安心感を与えてくれる取材の時間でした。 ゲストハウス ポンコタン 〒049-5721 北海道虻田郡洞爺湖町洞爺湖温泉97 080-6092-4967
Rietty
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Shinji