
心の伊達市民 第一号
新年第一回目のマンションのデジカメクラブの例会があった。
話題は写真ではなく忘年会のことが中心で、新年から暗い会話だった。
忘年会で出されたステーキが冷たくて、私はメールで苦情を知らせたが、なかなか返事が無かった。
その後に、7名の内の3名が「腹を壊して下痢をした」と知らせて来たが、私は大丈夫だった。でも3名とも病院には行かなかったので、ステーキのせいとも言えず悩んだ。
知らせ方が悪いと、「クレーマー」と思われてしまう恐れがあるからだ。
しばらくしてレストランから謝罪の電話があったが、もうその時は文句を言う元気も失せていた。
例会の後に気を取り直して、1人で銀座に出てランチを食べた。
その後、「どうしようか?」と考えたが、少し前に「エルメス」からメールが届いたのを思い出した。
メールには「日頃は銀座メゾンエルメス フォーラムにご来場いただきまして、誠にありがとうございます。クリスチャン・ヒダカとタケシ・ムラタの二人展「訪問者」の会期が残りおよそ半月となりました」とあった。
エルメスは文化活動に熱心で、8階と9階のフォーラムではアート展を開催し、10階には小さな映画館がある。私は毎月1回行われる映画鑑賞会には必ず申し込んで見に行っているので、それで知らせて来たらしい。
店の裏側にエレベーターがあり、係の女性がいて検温と手指の消毒をする。
8階で降りると、そこはギャラリーとなっている。
係の女性がいるので、『作品の写真を撮ってもいいですか?』と聞いたら、『OK』となっていた。
今回の作品展のタイトルは「訪問者」でる。
作者は「クリスチャン・ヒダカ&タケシ・ムラタ」である。
渡された解説書によると『本展では現実と虚構の狭間を問う制作を続ける二人のアーチストの世界を通じて。コンテンポラリー・アートの中に見るフィクショナルな構造を2つのナラティブで浮かび上がらせるものです』とあり、私にはサッパリ分からない。
『タイトルとなった「訪問者」とは一体誰でしょうか? 展覧会を訪問する私達でしょうか? 来日するアーチストのことでしょうか? 或いは作品の中に描かれた誰かを指しているのでしょうか? ここでは小説やSF映画のように、訪問者とは誰なのか、何であるかを探すような開かれた問いかけから始まります』
凡人の私には益々、分からなくなって来る。
エルメスを出て、銀座通りを新橋方面に向かって歩くと、すぐ左側に「FANCL」という化粧品会社の店がある。ここは化粧品会社なので、男の私が1人では入り難いのである。でもこの会社も文化活動に熱心で、10階の屋上で季節ごとに色々なイベントを行っている。
それを見たさに、かなり前だが私は思い切って1階の正面ドアを開けた。
男性が店に入って来ると、店員の女性は無関心となる。「どうせ10階に行くのだろう」と思うのかもしれない。
今回のイベントは「想いを結ぶ」であった。
説明書によると『冬フェアでは、より多くの人にアート作品を楽しんでいただけるよう、むす美、FUKUFUKU+そしてファンケルの想いを込めて「ふろしき」にしました』と書いてあった。
いつものように、奥にあるエレベーターに乗って10階で降りた。ところが何も無かった。どうやら今回のイベントは1階だけのようだった。1階で写真を撮ってから、表に出た。
銀座8丁目には資生堂のギャラリーがあるので、そこを見に行った。
このギャラリーは1919年にオープンした現存する日本最古の画廊だそうだ。
1階はケーキなどのショップで、地下一階がギャラリーとなっている。
ここは正面入口から入ってギャラリーに行くので、なにも買わない私はいつも気おくれがしている。この日は閉館中で、次回の展示のための準備中だった。残念だが仕方ない。そこから新橋まで歩いて行って、東京BRTに乗って家まで帰った。
(
おまけの話)
私がたまにお店でもらって来る「銀座百点」の1月号に面白い記事が載っていた。
それは日本人の「死」に関してで、著者も「正月早々、縁起でもないが・・・」と書いていた。しかし私には初めて知った情報で、大変に参考になった。
『日本人男性の死亡届で一番多い年齢は88歳』だそうだ。女性はやはり長生きで、92歳である。平均寿命は男性は79.6歳で、女性は86.4歳であるから、男性は平均寿命より8年は長生きしている。 そうなると、私はあと7年らしい。長過ぎるなー。
「昔は良かった」と年寄りが言う。
これは口癖のようなもので、私は本当に「昔が良かった」とは思えない。
私の子供の頃は戦後すぐだったので、食糧難でいつも腹を空かせていた。
いまでは誰でもが『美味しいものを食べたい』と言うが、私の子供の頃は『お腹いっぱい食べたい』だった。
今では生活も電化され家事が楽になり、冷暖房もあるし、自家用車も持てるようになった。その上に美味しいものも食べられるし、海外旅行も行けるし、娯楽も色々あるし、楽しいことがいっぱいある。
年寄りは忘れっぽいから、『昔は良かった』と言っているのかもしれない。
出掛ける時は、いつも本を持って出る。
ランチの後にカフェに入り、そこで本を読んで一休みするのである。
今回は同級生の嵐山光三郎の「世間 心得帳」というエッセイ集である。
その中にある「死の商品化」が可笑しい。
『生命保険は死の商品化で、一家の主は死してナンボになる。江戸時代、武士が潔く切腹したのは、「父親が切腹した家のものは手厚く守られる」という世間の不文律の習慣があったからだ。貧乏武士の家の妻子は「父上が切腹してくれればいいのに」と願ったという』。本当ですか? 嵐山さん!
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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確固たる想いを洞爺湖で実現させたい! 〜『湖の膳舎 なかむら』 和食職人 中村 悠佑氏〜
2023.4.25 OPEN以来、ずっと気になっていた方をようやく取材することができました。 今回の主人公は『湖の膳舎 なかむら』代表 中村 悠佑さん 千葉県出身、東京都育ち、1児のパパです。 “ My洞爺湖! “ そんな勘違いをしてしまいそうになる景色。 広い窓いっぱいに洞爺湖が見渡せる贅沢空間にその店舗は存在しています。 和食職人と言うと、中学校を出て直ぐ料理の修行をするようなイメージがありましたが、中村さんは和食職人としては珍しい大卒者です。 「本当は、高校を出たら直ぐに飲食業につきたいと思っていました。早くこの世界に入りたかったのです。けれども、親の説得を受けて大学へ行くことになりました」。 とにかく飲食業が好きだった中村さんは、高校一年生の時からファミリーレストランやイタリアンレストランで、大学に入学してからは居酒屋でアルバイトをする日々でした。 「大学では文学部に所属していました。 実はあるリース会社に就職も内定していました。 でも、居酒屋でアルバイトしていた時に感じた、お客様が料理とお酒を楽しんでいる雰囲気がとても好きだったという気持ちを捨てきれず、どうしても飲食業への道が諦められず、その会社を断ってしまいました」。 そんな中村さんが大学卒業後に選んだのは調理師専門学校への入学でした。 「最初はフレンチ志望でした。 かっこ良く見えたんでしょうね。 授業では、和・洋・中をそれぞれ学ぶのですが、授業の中で試食をした時に体にも舌にも自分は和食に向いていると実感しました」。 専門学校卒業後、中村さんは赤坂や新宿の料亭で働き始めました。 修行時代の始まりです。 「就職して初めて飲食業の本当の厳しさを知りました。 労働環境は劣悪でしたよ笑 勤務時間は07:00~25:00 休みの日も糠床をかき混ぜるために出勤していました。 それでもそれほど辛いとは感じなかった。 修行時代を6年ほど過ごし、独立を決めました」。 29歳の時に独立を決めた中村さんは、東京中野の駅前に店舗を構えました。 30席もある店だったそうです。 “ この人みたいになりたい! と憧れる人はいない “ ときっぱり言い切った中村さん。 どこかで聞いたことがある…と思ったら、大谷選手が言った言葉でした。 「え?彼もそんなことを言っていましたか」。と、ご存知なかったご様子。 「修行時代、味付けはさせてもらえませんでした。味付けは最高の位置にいる人の仕事ですからね。 だから、味覚のトレーニングと料理の独自の研究は常に怠りませんでした。 自分の味付けは自分の店を始めてから学びました」。 なるほど。 以前、ある方から、洗い物をする時に鍋についたものやお客様の皿を舐めて味を覚えたという話を聞いたことがありましたが、やはり料理人の世界は厳しいのですね。 「妻は自身で店を持つことを夢に持ち割烹料理店で修行しており、2人で店をスタートしました。東京のお店は住宅街のひっそりとした場所で始めましたが、そこの住宅街にお住まいのお客様はもちろん、近隣の会社様の接待の需要も有り様々なお客様にお越し頂いておりました。その店は、12年間営んでいましたが、北海道行きを決め2023年1月31日に閉じました」。 きっと惜しまれつつ閉じられたのだと思います。 それが証拠に、その時のお客様が東京から洞爺湖までお食事にいらっしゃると言います。 「中村が洞爺湖に店を出したらしいと聞きつけた中野の割烹料理屋時代のお客様がわざわざ来てくださいました。 本当にありがたいです」。 「ところで、何故、洞爺湖を選ばれたのですか?」 「妻の美佳が北斗市出身なのです。いま娘は3歳なのですが、子育ては自然豊かな北海道で育てたいと予々考えていました。そういう視点で北海道を旅した時に、洞爺湖がとても気に入りました。移住するならここが良いなと。でも、果たしてここで商売が成り立つのか? とても不安でした」。 そんな心配を余所に、オープン直後から多くの客様が足を運ぶ店となりました。 「雑誌の「Poroco」や「Ho」に掲載されたことは大きな宣伝になり、とても感謝しています。 札幌圏の方も来てくださるようになりました。ですのでお陰様で夏は順調でした。でも、冬が心配だった。ところが、今度はインバウンドのお客様もたくさん来てくださるようになりました。 シンガポール・タイ・台湾の方が多いです。 海外のお客様は積極的にGoogleにコメントを入れてくださいますので、それをご覧になったお客様がまた来てくださいます」。 予約専門のお店のため、来店者数に合わせて仕込みができるのも強みのようです(席が空いていれば飛び込みも受け付けてくださるそう)。 「どのお料理も素材の味が最大限に生かされていますが、取引先の生産者さんはどのように選ばれているのですか?」 「洞爺湖に引っ越してきたのは2023年の2月で、店のオープンは4月でしたので、野菜は根菜くらいしか手に入らない時期でした。お米は移住前から財田米を食べ比べ、宮内農園さんのお米を食べて「この美味しいお米なら洞爺でお店が出来る」と確信を持てました。宮内農園の佐々木ご夫妻には他の農家さんをご紹介頂いたり、自分達で道の駅で買って美味しかった農家さんにアポを取ってみたりとオープン前は奔走の毎日でした。出来るだけ地元の食材を利用し、地元の方にこんな美味しい食材が地元に有ったんだ!と再発見していただけるようなお店を作っていきたいです」。 特別なものを使うのではなく、地元の方がよく食べているものを使いたいという考え方は素敵だと思いました。 「地元食材を使いながらも、今まで無かった店、今まであまり食べる機会が無かった料理を、職人技で提供する店になりたいと考えています。 とは言え、いまは未だ試行錯誤の段階です。 地元の方に足を運んでいただくためには地域性も大切にしなければいけませんから」。 「ところで、お二人にお尋ねします。移住して良かったなあ〜と思う瞬間てどんな時ですか?」 「最高の食材がすぐ身近にあることが幸せです。 娘がのびのびと成長していると感じる時もまた移住して良かったと感じます」。と悠佑さん。 「洞爺湖を眺めながら大好きな温泉に入っている時です!笑」と美佳さん。 明るい美佳さんは早くも常連さんの人気者です。 「最後に目指しているスタイルがあればお聞かせいただけますか?」 「洞爺湖ならではの和食の店を確立したいです。この素晴らしい借景の中で、洞爺湖でしか食べられないものを提供したい。そのためにも、もっともっと洞爺湖のことを知りたいですし、洞爺湖の食材のことを研究したいです」。 そう力強く語った中村さんの元に、保育園から帰ってきた娘さんが「ありがとうございます!」と言いながらニコニコと現れました♡ ―湖の膳舎 なかむら 情報― 電話 080-9269-2578 住所 北海道虻田郡洞爺湖町洞爺湖温泉186-85 Instagram https://www.instagram.com/nakamura0321?igsh=MWR1bm9ieTBya28yNw==
Rietty
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