
心の伊達市民 第一号
2024年7月3日に20年振りに、1万円、5000円、1000円の新札が発行された。
「キャッシュレスの時代に、今さら新札は不要だ」という意見もある。
でも私は現金の方が良い時もあると思う。カードで支払うと、払う方も受け取る方も数字として捉えているので、お金としての倹約やありがたみが無いように感じる。
特に少額の支払いの時など小銭入れから丁度の金額を出すと、小銭入れが軽くなり、なんだか嬉しくなる。
一万円札は渋沢栄一の肖像が印刷されている。
新札発行に合わせて、新聞や雑誌では渋沢栄一を取り上げている。
特に彼が書いた「論語と算盤」は経済人にも好評のようだが、私は読んだことがない。
図書館に蔵書があるので、その内に借りて読んでみようと思っている。
しかし5000円札の津田梅子、1000円札の北里柴三郎はあまりマスコミでは取り上げられない。彼らの地元では盛大なイベントが開催されている。
新札に登場したそれぞれの人達の業績は、私が説明するまでもない。
それよりも偽造防止の技術が凄いらしい。
印刷方法は凸版印刷だが、額面数字、識別マークはインクを高く盛り上げる「深凸版印刷」が使われていて、触るとザラザラする。透かし模様は、更に高度になったようだ。
また肖像はホログラムを採用して、3Dで表現された肖像が回転するという最先端技術を採用しているが、これは世界初だそうだ。視覚障碍者のために、お札の左右に金額により位置を変えたざらつきを付けている。
新札は7月3日に市中銀行に届くそうだが、我々がすぐには手に出来ないようだ。
夕方のニュースでは、渋沢栄一の生誕地の埼玉県深谷市が取り上げられていた。
銀行では新札に両替で「3時間待った」などの、色々な人達にインタビューしていた。
私は銀行には行かず、以前に中には入らなかったが見たことのある、飛鳥山の「渋沢栄一資料館」に行ってみた。
現地に行って見て分かったが、この日だけは300円の入場が無料だった。
館内の展示はパネル、写真、資料などで、高齢化の影響で私はこういうものは読むのが面倒になっている。出口で係の女性に「カイノキ」の植えられている場所を聞いた。
この木は「孔子が亡くなった時に、弟子の1人が曲阜の墓に植えたとされる木である。
渋沢栄一は曲阜を訪ねる夢は叶わなかったが、自宅の庭にカイノキを植えて孔子の教えに思いを馳せたのかもしれない。
渋沢栄一資料館の隣の旧渋沢邸にも行ってみた。
するとそこでは、「新1万円札発行カウントダウン・プロジェクト」というイベントをやっていた。暑い最中に大勢の人達が集まり、ぬいぐるみの「しぶさわくん」も登場していた。
主催者の長々と挨拶が終り、大勢の幼稚園児が出て来た。
みんなに金色の小さなくすだまが渡された。そしてやっと大きなくす玉が割られた。
それを見て、私はすぐにその場を離れた。あまりに暑かったからだ。
新札をまだ手にしていないので、「お金なら日銀」と連想した。
そこで日本銀行本店の見学予約をしようと思い、ホームページを開いて驚いた。
1回に20名の案内だが、9月まで全く空きが無いのである。
それでももう一度、細かい予約日と空きを調べた結果、8月16日の午前9時30分からだけ1名の空きがあった。お盆休みで空きがあったのかもしれない。早速、申し込んだが、午前9時30分は少し早いが仕方ない。この報告は8月後半に・・・。
(おまけの話)【お金の話】
すでに80年以上も生きて来たのに、お金を落としたことはあっても、お金を拾ったことがない。でも会社に泥棒が入り、私のアタッシュケースが壊されて、5万円を盗まれたことがある。5万円より、気に入っていたアタッシュケースが悔しかった。
幸いに今までに大金を落としたり、盗まれたことは無い。
昔は社員に支払う給料は現金だった。ある時のことである。古株のKさんは給料日に飲みに行って、どこかで給料袋を失くしてしまった。しかし会社としては、どうしようもなかった。
15年くらい前だと思うが、四谷に住む姉が近所の中古住宅が売りに出たので買った。
その時の条件として、『家の中のもの、全て含めて買い取って欲しい』であった。
1人暮らしの高齢の女性が、養老院に入るからである。
姉は家具、食器、テレビ、その他を業者を呼んで、廃棄処分にした。
整理が付いた時に、タンスのあった場所に隠し戸棚があるのを見付けた。
そこを開けたら、なんと現金で100万円が出て来た。
不動産屋に連絡したら、「全て含めての条件です」ということになり、私も姉から20万円をもらったことがある。後に分ったのだが、その女性は高名な国会議員の「お妾さん」だったのである。
20年以上前だが、母が亡くなった時の遺産分割で、姉と妹は現金を引継いだ。
小金井の郵便局と銀行に預金があり、私は2人を連れて解約に行った。
その金額は相当のもので、2人とも大きな紙袋に現金が一杯になった。
私は『それを持って電車で帰るのは危険だ。私の良く知る多摩信で、自分の口座に振り込んだ方が良い』と教えた。
そして3人で駅の近くの多摩信に行った。
係員が2人出て来て、現金を数え終えて言った。『次の時は、事前に連絡を欲しい』。姉は笑いながら言った。『次はありません!』・・・と。
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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10/08(日) ふらり旅人からのゲストハウス 自由人 小林圭子氏 〜想いと直感のままに『ポンコタン』
今回の主人公は洞爺湖の近くでゲストハウス『ポンコタン』を営む小林圭子さん。 旭川出身の47歳。 洞爺湖に移住する前は名古屋で商売をされていました。 「北海道には30代後半からバイクにテントを積み、 ふらりと旅しに来ていました。」 洞爺湖との出会いは、 2018年に「幸せのパン」の映画の舞台になったところを見てみたくて 青春18きっぷでふらりとやってきたのが初めてでした。 ところで圭子さん。 なんと言うか・・・。 「以前、どこかで会いましたっけ?」 そんな錯覚を起こさせる人です。 あの、バリアフリーな雰囲気は一体どこからくるのだろうか? 探ってみたくなりました。 旭川から札幌へ。 そしていきなりポン!と名古屋へ飛んだ圭子さんが始めたのは、 なんと”バナナ焼き屋“のお店でした。 店の名前は「パピリカ」。 それはアイヌ語で「豊作」という意味です。 バナナ焼き屋をやろうと思った理由は〜。 「小さい頃から食べていたソウルフードだったから」 ただそれだけの理由で、 古くからお菓子文化が発達している(駄菓子の製造所も多い)名古屋で店を出そうとは、 普通はなかなか考えつかない。 でもそれをひょいっと始めてしまうところが圭子さん流。 深くは悩まない。 やりたいからやる。 ただそれだけ。 そんなシンプルさが、度胸を超えた何かを感じます。 パピリカ時代のHPを見つけました。 熊が鮭ならぬバナナを咥えている姿が なんともユニークで忘れないロゴです。 何事もサラッと話す割には材料にはかなりこだわっています。 卵も牛乳も使用していないので(カスタード以外)、 卵アレルギーや牛乳アレルギーの子どもを持つ親御さんも よく買いに来てくれたそうです。 そして白餡はしっかりと手作り。 バナナ焼きと言えば旭川の名物お菓子。 この時お話を伺うまで知りませんでしたが、 旭川のバナナ焼きにもバナナそのものやバナナエッセンスなど、 バナナフレーバーは一切入っていないそうです。 バナナ焼きとは、形からだけ連想するネーミングのようです。 とても美味しそう〜! 食べたかった〜! パピリカはすぐに地元に溶け込み、 8年間営業を続けました。 その時の繋がりは今も続いていると言います。 人懐っこいと言う表現とも違う、 相手に壁を作らせない不思議な力を圭子さんは持っています。 「いろいろなところから転勤してきた人たちが多く住むところでした。 近所の方がよく買いに来てくださっていましたよ。 家賃を払いつつ、 女ひとりが食べるだけの分はなんとか稼げていました。」 「ところで、ポンコタンは小さな村という意味。 パピリカは豊作という意味ですよね? どちらもアイヌ語ですが、なにか特別な意味があるのですか?」 そんな筆者の質問に 圭子さんはまたもやあっさりと答えます。 「いや、なんとなくです。」 まただ…。 やはりこんな調子…笑 筆者はその言葉の背景を知りたい!と質問をしても、 決してはぐらかす訳ではなく、あくまでもサラッと答える。 想いが至極シンプルだからこそ、 きっとその時の直感のまま「なんとなくそうしよ」と 思った通りに動いてしまうのだろうと思います。 しかも、転機にはだいたい誰かが力を貸してくれる。 これはもう人徳です。 気負わず流れに任せるというのは、実は楽そうで楽ではない。 でも圭子さんは素直に誰かの力を借りながら、 とても自然にその技を使ってしまう。 「名古屋の友人がゲストハウスをしていたんです。 あらたに宮古島でゲストハウスを始めるにあたって、私も少し手伝いました。 その友人は度胸があるというかなんというか、 外国人が結構泊まりに来ていたのですが、英語は喋れないんです。 でもなんてことなくやっているのを見て、 私も妙な自信をつけてしまいました。 『そうか、英語ができなくても宿屋はできるんだ』 ってね。」 「その辺りから、ゲストハウスに興味を持つようになりました。 ちょうど、ふらりと洞爺湖へ足を運ぶ機会も増えていたこともあり、 洞爺湖の近くでゲストハウスをやることが ふわっとしたものから現実的になりました。 あ…その前にバナナ焼き屋を畳まないと。」 そう思った時、 店を丸ごと買いたいと申し出てくれた人が現れました。 それは元々はお客様だった友人で、古民家カフェを営んでいる方でした。 バナナ焼き屋営業終了2日後には洞爺湖に移住してしまうというスピーディーさ。 思ったらサラッと行動! その後、1年半をかけて建物をリフォームし、ポンコタンを開業されました。 「待っていてくれているような気がしていました。 洞爺湖はどっしりとしていて迎え入れてくれるような安心感がある湖だと感じています。 移住してすぐは、キャンプ生活をしながらあるホテルでバイトをしていました。 同時に物件探し。 そんな中、即決したのがこの建物でした。 借金も1000万円以上してしまいました。」 この建物は、昔、ある会社の社員寮だったところ。 なので、一部屋一部屋にトイレが付いていました。 さて、ゲストハウス「ポンコタン」は 内装・外装そのほとんどをDIYしています。 もともと建物に興味があったわけでもなかった圭子さんですが、 もの作り好きであったことが功を奏しました。 「必要に迫られた部分もありますが、 バナナ焼き屋時代に建物の内部構造にものすごく関心を持つようになりました。 そもそもは工事関係者への不満に端を発したのですが、 お陰で建築について色々知ることができました。 建物がどんなふうにできているのかを知るために、 分解しながら構造を理解していきました。 コンクリートにネジを入れるにはどうしたらよいか?とかね。」 冒頭に登場した仕切りに描かれた洞爺湖の絵は、名古屋時代の友人が描いてくれたもの。 「名古屋時代の友人たちは変人が多くて(笑) 尋ねてきては色々置いて行ってくれます。」 困ったふりをして、笑いながら話す圭子さんには、 遠くから支えてくれる友の存在に感じる安心感が表れていました。 圭子さんの仲間たちは、 「ポンコタン」のオーナーの とてつもなく自然体なおもしろキャラクターをよくご存知のようです。 「うちね。コンセプトなんてないのよね。」 圭子さん、突然、そうサラッと言った後でこう続けました。 「よく眠れました!って言ってもらえるのが一番嬉しいかな。 旅の途中で快適な時間をここで過ごしてくれたら、 それが一番嬉しい。 それとね。 今年の夏はすごく忙しかったのね。 借金あるからあと10年はやらないといけないけど、 とりあえず持続可能な宿を目指して働き方改革するわ(笑)」 「10年経ったら何するの?」 そんな問いに。 またもやサラッと 「わからないな」 と答える圭子さんでした。 帰り際 「また来て!」 と軽い調子で言われました。 「うん」 と答えてしまいました。 ポンコタンの魅力は この気安い感じなんだろうと思った筆者でした。 決して気負うことなく、 そのまんまの圭子さんが妙な安心感を与えてくれる取材の時間でした。 ゲストハウス ポンコタン 〒049-5721 北海道虻田郡洞爺湖町洞爺湖温泉97 080-6092-4967
Rietty
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