
心の伊達市民 第一号
雑誌「文芸春秋」に「同級生交歓」という企画があり、有名人の同級生同士が写真で登場する。たまには「へー。あの人とあの人が同級生だったんだー」なんて思う時がある。今回はそんな大袈裟な話ではなく、久し振りに同級生が集まったのである。
2020年2月に横浜港に入港したクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」で新型コロナウイルスの患者が発見され、それから日本は3年間以上にわたりコロナに翻弄されて来た。
その年に私が主宰している「都心を歩く会」を企画したのだが、その時は新型コロナウィルスが猛威を奮っていて、参加者が『今回は止めよう』と言って来たので中止となった。その時は「まさか3年も延期」とは誰も思っていなかった。
今年の3月13日以降は「マスク着用は各自の判断に委ねる」という政府方針が出たし、5月8日からは「感染症の扱いが2類から5類」に引き下げられる」ことも決まったので、「都心を歩く会」も再開とした。
この年になると、3年というのは非常に貴重である。
その間に幸いに亡くなった仲間はいなかったが、足腰が弱り、あまり歩けなくなった男はいる。
足腰が弱った、膝などの関節が痛くなった、耳が遠くなった、食事の量が減った、睡眠時間が少なくなったなど、年齢に応じて「弱・痛・遠・減・少」などのマイナス文字と同時に「XXった」と親しくなった。
最近は「都心を歩く会」をみんなの体調に合わせて、「都心を歩かない会」に名称変更した。
そして今回はコロナ後の最初の「都心を歩かない会」の開催となった。
新橋駅に午前10時30分の集合である。
「都心を歩かない会」のメンバーは現在は7人であるが、今回はJR新橋駅前に集合したのは4人だった。1人は「病院の定期検診日」で、もう1人は当日の朝になり、「体調不良」の連絡があった。
もう1人のNさんが待ち合せの時間になっても来ないので、携帯に電話をしてみた。
すると『えー! 待ち合わせの時間は11時30分じゃないの? すぐ追いかける』と言った。でもこうやって段々とメンバーが減って行くのかと思うと、この会がいつまで続くか心配になって来た。
新橋駅から「ゆりかもめ」に乗って「市場前駅」で降りた。
その後、20分遅れぐらいで、Nさんとは「市場前駅」で合流できたから良かった。
「ゆりかもめ」は遠回りして行くので、私とOさんは「ゆりかもめ」に乗らないで、家から歩いて行った方が早いくらいだ。
豊洲市場は私には馴染みの場所だが、私の家の近くに住むOさん以外にとっては初めての「豊洲市場」の見学である。
かなり前に同級生のSさんが豊洲市場の建設時に仕事を受けていたので、私は彼の会社の社員という資格で建設中の市場内を見学したこともあった。
そのSさんは3年前に脳梗塞で倒れ、いまは交流も出来ない状態となってしまった。
先ずは「マグロのセリ場」を見に行く。ここは築地とは違い、上の通路からガラス越しで見学する。
もうとっくにセリは終っているので、マグロの入っていた空き箱だけ見て来た。
次に隣の棟の「仲卸」の様子を、ここも同じくガラス越しに見る。
既に店じまいした様子で、発砲スチロールの空き箱だけが見える。
食事処はどこも満員で、仕方ないので場外にある「江戸前城下町」でそれぞれが勝手に食べた。
そこではコーヒーを飲める店も無いので、歩いて私の住むマンションまで行ってカフェを予定した。ところが間の悪いことに、マンションのカフェは定休日だった。
また仕方なく、ロビーの椅子に座って雑談をして過ごしたのである。
私の話題の提供が悪かったのか、年金、お墓、健康などの話になり、明るい話題は出なかった。でもみんなは次の企画を期待しているようなので、4月の後半に次の計画をしようと思った。
(おまけの話)
同級生と、その他の友人の話である。
私の引退した頃から日本経済も活気を失って来ていたので、友人で社長をしている男達に「引退」を勧めた。
そのキッカケは女房の友人のご主人が会社経営をしていて、年々業績不振が続き、彼女が1人で心配して我が家に相談に来たことだった。
話を聞くと、まだ資産が残っているので、『後継者もいないのだから、もう会社を畳むべき』と話した。彼女はアドバイスを聞いて喜んで帰って行ったが、ご主人が聞き入れずズルズルと会社を続けてしまった。そして全てを失い、今では子供の世話になっている。
そんな経験もあり「年をとったら、引き際が大事」と思っていたので、その頃に社長をしていた4人の友人に「会社を畳むべき」とアドバイスした。そして私の経験を話し、『どうやって会社を畳むか?』を説明したのである。
その結果であるが、私のアドバイスが良かったかどうかは不明だが、2年くらいの間に4人とも会社を畳んだのである。いまは「悠々自適」かどうかは不明だが、自適の生活を楽しんでいるようだ。
しかし悔やまれることもあった。親しくしていた4人の友人が、自死をしてしまったことだ。4人とも会社経営者だったが、仕事の話をあまりしなかった。
なんとなく分かっていたのは、2人はバブル期の過大投資だった。
他の2人は理由がよく分からない。社長ともなると、必ず誰でも悩みはある。
それを相談できる人と、恥と思って相談できない人がいる。4人ともそのタイプだった。このことはいつまで経っても悔やまれて、20年近く経っても忘れられない。
(合掌)
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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「SeicomartのCMソングを歌いたい!!」 伊達のArtist 藤河 ちあき の未来予想図
むしゃなび読者の皆様へ 新年明けましておめでとうございます。 旧年中は、多くの皆様にご訪問いただきまして誠にありがとうございました。 Riettyとして、記事を書かせていただくことになって2年目。 2022年も、Riettyが出会った「好き」「楽しい」「いいね!」を皆様と共有できるような記事を書いていきたいと思っています。 引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。 さて。 閑話休題。 新年第一弾は、伊達の歌姫 Artist 藤河 ちあきさんのご紹介です。 昨年末、待ち合わせしたのは伊達の牧家さんでした。 待ち合わせ時間より少し前に到着し、ちあきさんを待つ筆者。 そして、ちあきさんが入店した時とても驚きました! 彼女の周り全体を優しい光が包んでいる。 うまく表現できませんが、これがオーラなのか!と感じました。 ↑注文したアイスカフェオレを嬉しそうに写真を撮るちあきさん♡ 藤河ちあきさんは、伊達市のご出身。 歌手への道を決定づけたのは5歳の時のことでした。 5歳のちあきちゃんが「将来は歌手になる!」と決めた出来事があったそうです。 それは、「なりたいな…」ではなかった。 「なる!」でした。 ちあきさん自身、「あれは決意でした。」と語っています。 大好きな歌を高校までは独学で学び、高校卒業後は東京へ出て修行の道を歩き出しました。 実はちあきさん、イラストレーターとしてもジャズシンガーとしても有名な水森亜土さんの大ファンでした。 亜土ちゃんグッズをたくさん持っていたそうです。 そして偶然にも親友のお父様が亜土さんの知り合いだったこともあり、水森亜土劇団の門を叩くことになりました。 劇団員としても亜土さんの運転手としても働き、約一年間、住み込みで修行をしました。 その後も学び、働き、各所で歌い続けながら6年の歳月が流れました。 けれども…。 なかなか芽が出ず、生活することにも疲弊してしまったちあきさんは、悩んだ末に帰郷することを決意しました。 13年前のことです。 「自分はダメなのかな…。」 それは、まさに打ちひしがれての帰郷でした。 つまりは挫折…。 ↑大好きな海。ここが藤河ちあきの心の拠所なのだそうです。辛い時もここに来ていたそう。 それでも。 「私には歌で生きていく以外は考えられませんでした。でも、そのためにはどうしたら良いのかも、その頃はわからなかった。 辛くて、辛くて、アルバイトをしたりしながら気を紛らわせて暮らす日々がしばらく続きました。」 その間、結婚も経験しました。 子供も二人授かりました。 しかし、結婚生活には2年でピリオドを打ちました。 親御さんからは経済援助を受けない決意でがむしゃらに働いていた日々。 二人の子供を抱え、困窮した生活に地獄も感じていたと言います。 それでも。 どうしても忘れられない歌への道…。 「私が生きる道で大切なものって何だろう? やっぱり歌を唄いたい…。 でも…。」 子供という宝ものを大切にすることが第一だとは分かりながらも、悶々と自問自答する毎日が続きました。 なんとか立ち直らなければと本も読み漁りました。 特に心理学や哲学の本を好んで読んだと言います。 そんなある日、ある人物と食事をしながら話したことがきっかけで、ちあきさんの歌道の第二の扉が開かれることになりました。 その後は様々なご縁が繋がる中で、レストランを初め各種イベントで唄うチャンスを得られる様になっていき現在に至ります。 思えば。 筆者が藤河ちあきさんの歌を初めて聴いたのは、伊達ウクレレ協会さんの小さなコンサート会場でした。 確か7年前のこと。 初めて聴いたちあきさんの歌にもちろん感動しましたが、どことなく寂しげに見えた訳が、これらのお話を伺い、なんとなく分かったような気がしました。 ちょうど、自分の道を暗中模索していた頃だったのですね。 「つい5年くらい前までは、人前で唄うと物凄く緊張して声が震え、なかなか克服できないでいました。自分でイメージトレーニングをするうちに、気がついたら声が震えていないことに気がつきました。場数を踏んだことで克服できたのかもしれませんが…。」 きっと、これはどんな仕事でも通る道。 でも、歌手として唄う場の数を増やすことは容易ではなかっただろうと察します。 「多くの方に支えていただいたから今があると思っています。 実は、今年の3月に開業届を出しました。 歌を生業にすることを決意したのです。 素晴らしいマネージャーさんにも恵まれました。 」 ちあきさんは、なんの迷いもないキラキラな笑顔で語ってくれました。 ↑藤河ちあき オフィシャルページのプロフィール写真です。 ところで、ちょっと思い切った質問をぶつけてみました。 ちあきさんなら真摯に受け止めて答えてくださると思ったからです。 「現在38歳でいらっしゃいますが、10代で売れている歌手が多い芸能界ですよね。ようやく順調に歌手活動が動き出したとは言え、ご自分の年齢を障害に感じることはありませんか?」 すると、キラキラの笑顔は一つも曇ることなく、ちあきさんはこう答えてくれました。 「それは全く感じていません。何故なら人にはそれぞれの夢の叶え方があると思っているからです。スピーディーに成し遂げる方もいれば、大器晩成型の人もいます。 あの…、私、100歳まで歌を唄い続ける予定なのです。 私の中には未来予想図がはっきりとあって、そこから逆算方式に、その予想図に到達するためには今は何をするべきか?と常に考えています。 私は私のペースでそこに到達すれば良いのだと思っています。だから、年齢は私にとって障害ではないです。」 ↑笑顔が本当に素敵♡ 続けてこんなお話もしてくださいました。 「誤解を受けると困るので、ほとんど人に話したことないのですが…。」 「え? そんな大切なお話を良いのですか?」 戸惑う筆者。 でも、真っ直ぐに見つめながらゆっくりと話してくださいました。 「私、二十歳を過ぎた頃から確信を持って感じていたことがあって…。」 これまでになく言葉を選び始めたちあきさん。 「ある日、車の中で歌っていた自分の声を聴いた時、自分自身がとても癒されたのです。 それはとても不思議な感覚でした。そこには、自分の声を客観的に聴いている自分がいました。その時に、『これは自分だけで聴いていたらもったいない!』って思ったのです。奢りでもなんでもなく。素直にそう思いました。この声は、この体に預けられたもの…、そんな感覚です。私の声という感覚というよりも、この体に預かった声という感覚です。どうしても、それ以外表現できないので、誤解されたら辛いのですが…。 だから、この預かった声を使って、世界にどうやって貢献したら良いだろう?と考える様になったのです。この声で唄った歌を聴いてくださった人と、癒しの時間を分け合っていきたいと考えるようになりました。」 「どうもこの体は良い声が出るらしい?」 そんな風にご自分の声を客観視していることを知り正直驚きました。 どう表現すれば、勇気を出して話してくださったちあきさんの想いを、読者の皆様に誤解されずに伝えられるだろうか?と、筆者自身がとても迷いました。 でも、ちあきさん自身の言葉をそのままお伝えすることにしました。 そして。 「歌を聴いてくださった方が、その場限りで癒されるのではなく、自分の存在・自分の命を大切にする気持ち、そして同じ様に周りの人の存在・命を大切にする気持ちを抱いていただくきっかけになれたとしたら嬉しいです。それが叶えば世界が幸せで溢れますよね。」 こんな愛いっぱいの言葉とともに、最後、さらに素敵な未来予想図を語ってくださいました。 ↑とってもママには見えない可愛らしさ♡ 多くの皆様にこのお預かりものの声をお届けするために〜 ☆SeicomartのCMソングを唄いたい! ☆久石譲のコンサートに出たい! ☆武道館で唄いたい! ☆紅白に出たい! ☆60代でスーパー弾き語りをしたい! というのが、ちあきさんの未来予想図でした。 でも、筆者は気づいていました。 ちあきさんは、「〜したい」と話しながら、実は「〜する」と決めていることを。 そう、5歳のちあきちゃんが「将来は歌手になる!」と決めていた様に。 ↑こちらは昨年12月に開催された「天才小学生ドラマーyoyoka」さんのコンサートにゲストで唄った時の写真です。 Yoyokaさんに自分の子供の頃を重ねていたのかもしれません。 伊達市に足場を置きながら。 人々とともに「愛と癒し」を分け合う歌を100歳まで唄い続けると決心した藤河ちあきさん。 「僕たちが一番のファンだよ!!」 と励ましてくれるお子様が、ちあきさんのエネルギーの源であることも間違いありません。 ジャンルを問わず歌いこなすちあきさん。 2022年も彼女の活動から目が離せません。 伊達市民としても、藤河ちあきさんを応援していきたいと思います。 ↑初のCDが2年前に発売されました。 ↑「藤河ちあきの My favorite things」にてラジオパーソナリティーも行っています。 藤河ちあき事務所 住所 室蘭市中島1-9-21 「!」音喜多 ※記事の内容は取材時の情報に基づいています(取材2021年)
Rietty
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