心の伊達市民 第一号
私が時々、外国人との関係の話を書くと、友人のHさんは定期便の手紙で『自分は全く外国人とは関係無い人生だった』と書いて来る。
私が外国人と縁があったのは、やはりなんと言っても父親の影響が大きかったと思う。父は若い頃にブラジルへ渡った。当時のブラジル移民とは違い、写真の研究だったようだ。実家が機屋で豊かだったので、親が亡くなってもいない内から、その遺産を分けてもらいブラジルに行った。
いま考えると、ずいぶんと無茶な要求をしたと思うし、親もよく許したと思う。
この辺りの話は、父が亡くなる前にもっと詳しく聞いておくべきだった。
(今回の写真は私が59年前に、ニューヨークの本屋で買った絵本「This is New York」です)
そこで私の今までの外国人との関りを、思い出して書いてみた。
観光旅行などでなく、実際に親しく関わった人達だけである。
一番最初は、アメリカ兵である。私が小学生の頃に、どこでどうして知り合ったのか分からないが、父がアメリカ兵2人を家に連れて来た。
そしてアメリカ軍の缶詰などを、横流ししてもらった。
その後、外国人と関係無い生活が続いたが、父は私に何回か『若い内に外国を見ておけ』と言った。しかし当時は渡航が自由化されていなかったので、外国へ行く機会があるとは思えなかった。
父の影響を受けていた私は、大学生の時に外国へ行く時のために英会話を習いたかった。そこで伝手を頼って、現在の原宿にあったワシントンハイツに住むアメリカ軍の将校夫人の家に通って英会話を習っていた。1963年の8月頃に、「ニューヨーク世界博覧会」の従業員募集を、私は新聞広告で見たのですぐに応募した。
そして運良く合格したのである。その後、渡航が自由化されたのは「1964年㋃」だった。1ドルが360円で、ドルの持ち出しは500ドルと制限されていた時代である。
生まれて初めての外国がニューヨークで、若かったので興奮していた時代だった。
社会人になり、会社が国際工作機械見本市に機械を出展した。
その時にブースにやって来たのが、アフリカ大陸の白人のザンビア人夫婦だった。
どういう風の吹き回しか忘れたが、彼らを連れて私の車で鎌倉観光をしたことがあった。
次に仕事で大阪へ出張する時に、新幹線で隣の席にカナダ人が座った。
話をしてみたら送電に関する仕事をしていたようで、全く商談がまとまらず落ち込んでいた。そこで私は『大阪出張が終ったら、私の家に遊びに来ないか?』と誘ってあげたら大喜びだった。
そして2~3日後に、ワインを持って遊びに来た。その時に彼は言っていた。
『カナダ大使館に電話して、新幹線で知り合った日本人に誘われたが大丈夫か?』
カナダ大使館は『大丈夫だから行ってらっしゃい』と言ったそうだ。
ロータリークラブの交換留学生で来日した、エジプト人と知り合った。
彼の誘いで女房の料理教室の生徒達にも声を掛けて、20人くらいでエジプト旅行をしたことがある。彼のコネでエジプト航空のビジネスクラスが、20万円と格安で乗れた。
ピラミッド、ツタンカーメン、王家の墓など、遺跡を見て廻った。
その時のお土産屋での経験に驚いた。私が買ったガラスのお土産がみんなも欲しくなったので、希望者を連れてその店に行った。そして『もっと買うから安くしてくれ』と言ったら、『そんなに欲しい人が多いなら、もっと高くなければ売らない』と言われた。日本と違う商習慣に驚いた。
女房と自家用車で奈良観光旅行へ行った時の話である。
奈良公園で急に土砂降りの雨が降って来た。
目の前を外国人が困っている様子だったので、窓を開けて『乗りませんか?』と誘った。乗り込んだのはインド人家族だった。
話をしてみたら、私の隣町に住んでいたのでビックリした。
その後、インド人から誘われて、彼の家で行われたインド人だけのパーティに参加したことがある。カレーがメインの料理だったが、意外だったのは豆料理が多かったことだ。でも、あまり美味しくなかった記憶がある。
この他にも、色々な国の人達が私の前を通り過ぎて行ったので書き出してみた。
機械を輸出して現地に試運転に行った時。シンガポール人、韓国人、台湾人、香港人。
自分の能力を過信して合弁会社を作った時(すぐに失敗)。オーストラリア人。
ホームステイさせた時の若者。オランダ人、ドイツ人。
人手確保のために行った時。フィリピン人。
無給の顧問先の会社の社長・社員・生徒・実習生等多数。ベトナム人
娘が留学するために現地の学校3校を、見学に行った時。スイス人。
ざっと数えてみたら、17か国にもなった。Hさんは驚くだろうなー。
(おまけの話)
韓国人は4人いるが、紙面の関係で1人だけ取り上げる。
私の子供の頃だが、パチンコの釘師をしていたKさんは、店の中で拳銃をぶっ放して警察に捕まった。彼は刑務所から父に手紙を寄越して、『家族が経済的に困窮しているので助けて欲しい』と書いて来た。
父はKさんが出所するまでその家族の面倒を見て、出所後は自分の会社のくず鉄の回収の仕事をさせた。その後、屋台のラーメン屋から始めて、中華料理店をするまでなった。父の死後も命日には、必ず線香をあげに我が家に来ていた。
女房の友人に日本人と結婚したイギリス人女性がいた。
彼女の紹介でイスラエル人女性(Iさん)と知り合ったが、彼女のご主人も日本人だった。Iさんは教科書にも出て来る、イスラエルの「キブツ」で育った人だった。
ある時、彼女に連れられて、都内のユダヤ教の教会に入ったことがある。
ご主人は芸術家で、そこそこ有名な人である。
一家は千葉県に越してしまいお付き合いは切れたがその後、TVニュースで息子が事件を起こしたことを知った。いまはどうしているだろう?
我が家では私が率先して、留学生をホームステイさせていた。
色々な国の人がいた中で、一番長くいたのがアメリカ人のジョンだった。
彼はモルモン教徒だったので、食べるものに色々と制限があったので女房は大変だった。モルモン教徒なので真面目なのは良かったが、面白味が無かった。
そして1年間のホームステイを終えて出て行く時に、『こんな良い家庭にホームステイ出来たのも、モルモンのお陰です』と言ったのである。感謝すべきは、私にだろー!
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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