
心の伊達市民 第一号
少し前に「人形町のカラクリ時計」の話を書いた。
その時にニューヨークで一緒に働いていた仲間のJ子さんから、『動くところを見たかったなー』というリクエストがあった。そこで改めて、カラクリ時計の動画撮影に行った。それと併せて。もう1台のカラクリ時計の写真も撮った。
この話は(おまけの話)ですることにする。
真打は最後に登場すると決っているので、その前に前座が人形町もう一方の町を案内する。
前回の人形町の町案内では、大通りを水天宮に向って左側の町の案内をした。
今回は左側の町の案内である。どちらかというと、今回の案内の方が古い歴史があるように思う。
都営「浅草線」の人形町駅を出て、大通りを水天宮方向に進む。
すぐ右手には私がいつも買う「天然たいやき」の「鳴門鯛焼本舗」がある。
ここもご多分にもれず、ドンドンと値上がりしていて、いまは1匹が260円になった。
その隣は鶏肉屋「鳥近」で、1916年の創業である。
ここで買う「玉子焼き」(900円)が美味しくて、近くに来るとつい買ってしまう。
今回は玉子焼きを買わずに先に進むと、すぐ右側にあるのが小さな「大観音寺」で、石段を登ると本殿がある。
石段の下には「百度石」が置いてあり、昔は百度参りをした人がいたことを偲ばせる。
大観音寺の右側は和風の飲食店が並んだ細い路地で、ここもなかなか風情がある。
大観音寺の少し先に「カラクリ時計」が立っている。更に進むと地下鉄「日比谷線」の駅に降りる階段がある。その上に1760年創業の親子丼で有名な「玉ひで」があるが、現在はビルに建て替えるために長期休業をしている。
僅かに客席数5席のイートイン方式で営業を続けているが、いつも見掛ける長い行列を知る者には寂しい限りだ。
建築計画を見たら、地上12階建てで地下は無しのビルで、上の方はマンションになるようだ。この辺の地価が高いところで地下が無いのは、昔のことだが先が読めず地下鉄駅を許可してしまったせいだ。現在の後継者は、さぞ後悔していることだろう。
その信号を右折すると、「小春軒」という和風の小さな洋食屋がある。
創業は1912年だから、もう100年も洋食を提供し続けている。この店で食べたことがあるが、「日本の洋食」である。
その先に進むと、偉大な人物の生誕地の表示が出ているビルがある。
それは「谷崎 潤一郎」の生誕の地で、中央区教育委員会の説明パネルがある。
現在はその子孫が洋食店「谷崎」を営業している。
そこからもと来た道を戻り、大通りを水天宮方面に進むと甘味処の「初音」がある。
ここは驚くべきことに、1837年の創業である。最近はあまり来なくなったが、以前は家族で来て「あんみつ」を食べた。
更に進み水天宮の交差点に至り、右角にあるのは1887年創業の和菓子の「三原堂」である。人形町には創業100年を越える店が、ゴロゴロしている。戦後創業では「駆け出し」である。ここで買う「豆大福」は美味しい。
そこを右に曲がり少し行くと、茶ノ木神社がある。
ここは昔は下総佐倉の城主である堀田家の中屋敷で屋敷の周りは茶ノ木で植えられていた。そのお陰で江戸名物の火災にも遇わず、火伏の神と崇められている。
茶ノ木神社を通り過ぎ、少し奥まったところに私の贔屓の日本蕎麦屋「丸富」がある。
ここでランチサービスの「ソバとイカ天丼(小)」を食べた。890円だった。
人形町は飲食店だらけの町で、しかも敷居の高い店は殆どなく、庶民に優しい町である。
(おまけの話)
人形町の「カラクリ時計」は、大通りに2台ある。
1台は鳥肉専門店「鳥近」のそばで、もう1台は水天宮交差点の近くにある。
11時からカラクリ時計が作動するので、それに合わせて水天宮近くのカラクリ時計を撮影に行った。
こちらの出し物は「落語」で、「三遊亭圓生」と「柳屋小さん」の2人である。
11時になり出囃子の音と共に、時計の扉が開いた。
3つの扉が開いて、上の段では左から「魚売り」、「大工」、「芸者」が登場する。
下の段では落語家が話を始める。しかし噺家だけはガラス越しなので、写真には綺麗に写らなかった。こちらのカラクリ時計は初めて見るので、どういう展開になるか分からなかったので動画撮影はしなかった。
私が撮影している姿を見て、通り掛かったサラリーマンがスマホを取り出して撮影していた。カラクリ時計の動きは2分間だけの登場なので、撮影するにはかなり焦る。
次の機会があれば、その時は「上手く撮る」と自分だけで決めてランチに行った。
正午のカラクリ時計は、前回の反省を込めて1台目の場所で待つ。
こちらはJ子さんのリクエストがあるので、動画撮影をする予定でいる。
だが太陽の位置が悪く、カメラのモニターを見ると画像が暗くなっている。
今さらどうにもならないので、そのまま撮影を続けた。
動画は容量が大きいので投稿する時のことを考えて、念のために2回に分けて撮影した。家に帰りネットで調べてソフトで画像を明るくして、容量も圧縮して小さくしたが、このブログに載せるのはシステム上で不可能だった。
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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03/01(金) 確固たる想いを洞爺湖で実現させたい! 〜『湖の膳舎 なかむら』 和食職人 中村 悠佑氏〜
2023.4.25 OPEN以来、ずっと気になっていた方をようやく取材することができました。 今回の主人公は『湖の膳舎 なかむら』代表 中村 悠佑さん 千葉県出身、東京都育ち、1児のパパです。 “ My洞爺湖! “ そんな勘違いをしてしまいそうになる景色。 広い窓いっぱいに洞爺湖が見渡せる贅沢空間にその店舗は存在しています。 和食職人と言うと、中学校を出て直ぐ料理の修行をするようなイメージがありましたが、中村さんは和食職人としては珍しい大卒者です。 「本当は、高校を出たら直ぐに飲食業につきたいと思っていました。早くこの世界に入りたかったのです。けれども、親の説得を受けて大学へ行くことになりました」。 とにかく飲食業が好きだった中村さんは、高校一年生の時からファミリーレストランやイタリアンレストランで、大学に入学してからは居酒屋でアルバイトをする日々でした。 「大学では文学部に所属していました。 実はあるリース会社に就職も内定していました。 でも、居酒屋でアルバイトしていた時に感じた、お客様が料理とお酒を楽しんでいる雰囲気がとても好きだったという気持ちを捨てきれず、どうしても飲食業への道が諦められず、その会社を断ってしまいました」。 そんな中村さんが大学卒業後に選んだのは調理師専門学校への入学でした。 「最初はフレンチ志望でした。 かっこ良く見えたんでしょうね。 授業では、和・洋・中をそれぞれ学ぶのですが、授業の中で試食をした時に体にも舌にも自分は和食に向いていると実感しました」。 専門学校卒業後、中村さんは赤坂や新宿の料亭で働き始めました。 修行時代の始まりです。 「就職して初めて飲食業の本当の厳しさを知りました。 労働環境は劣悪でしたよ笑 勤務時間は07:00~25:00 休みの日も糠床をかき混ぜるために出勤していました。 それでもそれほど辛いとは感じなかった。 修行時代を6年ほど過ごし、独立を決めました」。 29歳の時に独立を決めた中村さんは、東京中野の駅前に店舗を構えました。 30席もある店だったそうです。 “ この人みたいになりたい! と憧れる人はいない “ ときっぱり言い切った中村さん。 どこかで聞いたことがある…と思ったら、大谷選手が言った言葉でした。 「え?彼もそんなことを言っていましたか」。と、ご存知なかったご様子。 「修行時代、味付けはさせてもらえませんでした。味付けは最高の位置にいる人の仕事ですからね。 だから、味覚のトレーニングと料理の独自の研究は常に怠りませんでした。 自分の味付けは自分の店を始めてから学びました」。 なるほど。 以前、ある方から、洗い物をする時に鍋についたものやお客様の皿を舐めて味を覚えたという話を聞いたことがありましたが、やはり料理人の世界は厳しいのですね。 「妻は自身で店を持つことを夢に持ち割烹料理店で修行しており、2人で店をスタートしました。東京のお店は住宅街のひっそりとした場所で始めましたが、そこの住宅街にお住まいのお客様はもちろん、近隣の会社様の接待の需要も有り様々なお客様にお越し頂いておりました。その店は、12年間営んでいましたが、北海道行きを決め2023年1月31日に閉じました」。 きっと惜しまれつつ閉じられたのだと思います。 それが証拠に、その時のお客様が東京から洞爺湖までお食事にいらっしゃると言います。 「中村が洞爺湖に店を出したらしいと聞きつけた中野の割烹料理屋時代のお客様がわざわざ来てくださいました。 本当にありがたいです」。 「ところで、何故、洞爺湖を選ばれたのですか?」 「妻の美佳が北斗市出身なのです。いま娘は3歳なのですが、子育ては自然豊かな北海道で育てたいと予々考えていました。そういう視点で北海道を旅した時に、洞爺湖がとても気に入りました。移住するならここが良いなと。でも、果たしてここで商売が成り立つのか? とても不安でした」。 そんな心配を余所に、オープン直後から多くの客様が足を運ぶ店となりました。 「雑誌の「Poroco」や「Ho」に掲載されたことは大きな宣伝になり、とても感謝しています。 札幌圏の方も来てくださるようになりました。ですのでお陰様で夏は順調でした。でも、冬が心配だった。ところが、今度はインバウンドのお客様もたくさん来てくださるようになりました。 シンガポール・タイ・台湾の方が多いです。 海外のお客様は積極的にGoogleにコメントを入れてくださいますので、それをご覧になったお客様がまた来てくださいます」。 予約専門のお店のため、来店者数に合わせて仕込みができるのも強みのようです(席が空いていれば飛び込みも受け付けてくださるそう)。 「どのお料理も素材の味が最大限に生かされていますが、取引先の生産者さんはどのように選ばれているのですか?」 「洞爺湖に引っ越してきたのは2023年の2月で、店のオープンは4月でしたので、野菜は根菜くらいしか手に入らない時期でした。お米は移住前から財田米を食べ比べ、宮内農園さんのお米を食べて「この美味しいお米なら洞爺でお店が出来る」と確信を持てました。宮内農園の佐々木ご夫妻には他の農家さんをご紹介頂いたり、自分達で道の駅で買って美味しかった農家さんにアポを取ってみたりとオープン前は奔走の毎日でした。出来るだけ地元の食材を利用し、地元の方にこんな美味しい食材が地元に有ったんだ!と再発見していただけるようなお店を作っていきたいです」。 特別なものを使うのではなく、地元の方がよく食べているものを使いたいという考え方は素敵だと思いました。 「地元食材を使いながらも、今まで無かった店、今まであまり食べる機会が無かった料理を、職人技で提供する店になりたいと考えています。 とは言え、いまは未だ試行錯誤の段階です。 地元の方に足を運んでいただくためには地域性も大切にしなければいけませんから」。 「ところで、お二人にお尋ねします。移住して良かったなあ〜と思う瞬間てどんな時ですか?」 「最高の食材がすぐ身近にあることが幸せです。 娘がのびのびと成長していると感じる時もまた移住して良かったと感じます」。と悠佑さん。 「洞爺湖を眺めながら大好きな温泉に入っている時です!笑」と美佳さん。 明るい美佳さんは早くも常連さんの人気者です。 「最後に目指しているスタイルがあればお聞かせいただけますか?」 「洞爺湖ならではの和食の店を確立したいです。この素晴らしい借景の中で、洞爺湖でしか食べられないものを提供したい。そのためにも、もっともっと洞爺湖のことを知りたいですし、洞爺湖の食材のことを研究したいです」。 そう力強く語った中村さんの元に、保育園から帰ってきた娘さんが「ありがとうございます!」と言いながらニコニコと現れました♡ ―湖の膳舎 なかむら 情報― 電話 080-9269-2578 住所 北海道虻田郡洞爺湖町洞爺湖温泉186-85 Instagram https://www.instagram.com/nakamura0321?igsh=MWR1bm9ieTBya28yNw==
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