心の伊達市民 第一号

小さな旅(8)・・・「べらぼう」の街

2025年1月から始まった、NHKの大河ドラマは「べらぼう」である。
少し前にNHK放送博物館に、その展示を見に行ったことはブログでも紹介した。
主人公の「蔦屋重三郎」は1750年1月7日の生まれで、亡くなったのは1797年5月31日なので、47歳という若さで世を去った。彼は江戸中期から後期にかけて活動した「浮世絵の版元」である。

私は毎週日曜日に1年間も大河ドラマを見るのは億劫なので、図書館に本を注文してある。・・・というわけで、今回は「べらぼう」の「小さな旅」の話である。  


 NHK放送博物館でもらった「べらぼう」のハガキ


中央区の観光協会特派員がブログで、「大伝馬町にある蔦屋重三郎の紹介」を書いているのを見た。そこで住所を頼りに探しに行った。
しかしGoogle mapでいくら探しても、その住所には見当たらなかった。

少し恥ずかしかったが、近くの郵便局に入って聞いてみた。
すると親切そうな局長が出て来て、『2つ先の路地を入った東横インにある』と言ってパンフレットまでくれた。パンフレットには「浮世絵の街・日本橋 歌麿さん写楽さん北斎さんが歩いた街」と書いてあり、江戸時代の浮世絵に関係していた店の場所が地図で示されていた。


 東横インの「耕書堂」の浮世絵   


大伝馬町から人形町へ向かう道に、郵便局長に教えてもらった「イチマス田源」という1816年創業の老舗呉服店がある。その店の2階に蔦屋重三郎が大伝馬町に開業した、「耕書堂」を模した施設を作ったので見に行った。
1階は呉服店だが、お土産屋のような雰囲気もある。2階には大広間があり、そこで反物を見せたり採寸や着付けをするようになっている。

階段を上がった右側のスペースに、「耕書堂」を模した部屋が作られていた。
説明文には『なにぶん素人が趣味の範疇で再現したもので御座いますので、時代考証として正確でない点が多々あることご容赦頂きますようお願い申し上げます』とあった。
この店の主は正直者ような気がする。


「イチマス田源」の再現「耕書堂」


(おまけの話)
蔦屋重三郎をネットで検索すると、色々な情報が出て来る。
その中に「江戸新吉原耕書堂」という名で、台東区の吉原近くに「耕書堂」が再現されていると知った。ここは2025年1月18日から2026年1月12日までの期間限定のようなので、すぐに出掛けて行った。

ただ場所は不便である。この近くには何度か行っているが、昔の吉原の面影は無い。
京急「浅草駅前」から都バスに乗って「竜泉」で降りた。
斜め向かい側が「鷲神社」なので、今回は「鷲神社」から「吉原観音」、「吉原神社」、「江戸新吉原耕書堂」、「旧吉原大門」と進み、最後は「浅草ロック」まで歩いてみた。


 「べらぼう」のパンフレット(台東区)


「鷲(おおとり)神社」は「酉の市」の発祥の神社で、私は以前に酉の市の日に行ってみたら熊手を求める人で大混雑だった。ここは「熊手」の発祥の神社でもある。
元々熊手とは庭で落ち葉などを掃き集める、竹で作られた道具である。
昔の戦争の時は馬に乗った武将を、金属製の熊手で引きずり下ろす道具でもあった。

社伝によると『天日鷲命は諸国の土地を開き、開運・殖産・商売繁盛にご神徳の高い神様として、古来よりこの地にお祀りされていた。その後、日本武尊が東夷征討の際、社に立ち寄り戦勝を祈願した・・・』

『志を遂げて帰途、社前の松の木に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、そのお礼参りをした日が11月の酉の市であったので、この日を鷲神社の例祭日と定めた』とある。
毎年、酉の市の日には熊手を売る店が150軒、参拝者は70万人にもなっている。


この辺りは旧吉原に近いので、まっすぐの道路がほとんど無いので、地図を持参したが、それでも分かり難い。大きな目標が台東病院なので、その方向に歩いて行った。
途中の右手に派手な幟が立てられた神社らしきものが見えた。

中に入るとここは吉原弁財天で、以前は湿地帯で弁天池という大きな池があったが今はもう無い。関東大震災の時に発生した火災から逃れるため、約100人の遊女を含む650人あまりの人達が弁天池に飛び込み、あまりの人数で身動きがとれずそのまま亡くなったのである。

その人達を供養するために、観音さまを造立したそうだ。
吉原弁財天の先に台東病院が見えた。そこへ台東区営バスの「めぐりんバス」がやって来た。バスの車体全体に「べらぼう」の絵が描かれていて、台東区は「べらぼう」を宣伝していた。


  台東区の「めぐりんバス」も「べらぼう」車体


そのまた先に「吉原神社」があった。
説明書きによると、この神社は『吉原遊廓とともに歩んできた神社です。吉原遊廓は元和3年(1617)、幕府の許可を得て庄司甚右衛門が江戸市中に散在していた遊女屋を日本橋葺屋町の東隣(現在の日本橋人形町周辺)に集めたことにはじまります。この地には葦が生い茂っており、そこから「葦原」、転じて「吉原」と命名されました・・・』

『しかし次第に吉原が江戸の中心地になってしまったため、明暦3年(1667)に当時は竜泉寺村とよばれていた現在地に移転となりました。以後、日本橋葺屋町付近にあった頃の吉原を「元吉原」、移転後の吉原を「新吉原」といいます』とあった。
この辺りも昔の吉原の雰囲気は全くなく、普通の都内の街と変わらない。


「吉原神社」


吉原神社の住所は千束3丁目なので、昔の吉原遊郭の外れくらいの場所になる。
参拝を終えて先に進むと千束4丁目となり、「江戸新吉原耕書堂」が右手に見えた。
もうここは旧吉原の真ん中で、左手には怪しい「ソープランド」が何軒も見える。

「江戸新吉原耕書堂」に入ったら、なんだか様子が変だ。私の思っていた施設と違う。
なんのことはない、ここはお土産屋だった。中央区の呉服屋が趣味で作った「耕書堂」の方が、それらしくて良かった。店で昔の「耕書堂」のあった場所を聞いたのだが、なにも買わない私なので、なんとなく愛想が悪かった。


   「江戸新吉原耕書堂」の店内               


「江戸新吉原耕書堂」を見てから、更に先に進むと「吉原大門」(よしわら・おおもん)がある。「大門」と言っても電柱に「吉原大門」と書かれているだけで、全く昔の様子は分からない。
ただこの辺りは道路がくねくねと曲がっていて、先を見通せないようになっている。
その理由は「表通りから吉原が見えないように、わざわざ道路を曲げた」のである。

昔の「耕書堂」のあった場所に看板があるはずなので、ずいぶんと探し回ったが見付けられなかった。多分、工事中の場所があったので、そこではないかと思う。
蔦屋重三郎の墓は東浅草の隅田川に近い「城向山正法次寺」だそうだが、今回は疲れたので行かなかった。


 「旧吉原」ヘの入口だった「吉原大門」


昔の「吉原遊郭」は、現在の台東区千束3丁目と4丁目の辺りである。
いまは昔の吉原の面影は全くなく、ソープランドや怪しげな「無料相談所」とか、スナックなどがある。そこで思い出したのだが、かなり前にトルコ大使館から「トルコ風呂」という名前は止めて欲しい」とクレームが付いた。

そこで「トルコ風呂」の名前が、現在の「ソープランド」となったのである。
性サービスだけが、昔の吉原の歴史を引きづっている。
今回の「小さな旅」は期待外れで、帰りは歩いて浅草ロックまで出た。
そこには春節で日本を訪れた中国人観光客が溢れていた。


 「ソープランド」の隣の女性専用の検診所

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北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。

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