
心の伊達市民 第一号
2日目は「寝不足」から始まった。
日の出の時刻に車から外を見たら、なんと20人ほどの人達が撮影に来ていた。
しかし雲が厚く、太陽が見えるようにはならなかった。
明るくなったので、昨夜の食事の道具の片付けをしてから出発した。
この日は奥志賀に行って、紅葉を撮影するのが目的だった。
車は湯田中、渋温泉を通り、志賀高原に入る。
その頃になったら、皮肉なことに秋の青空であった。
真っ青な空に白い雲があり、天は高く「秋だなー」と感じた。
中学・高校時代に毎冬にスキーに来ていた志賀高原の「丸池」を通過した。
雪の無い丸池は私の見ていた光景と違うので、どこのヒュッテに宿泊したのかよく分からない。
奥志賀に入っても、紅葉は見られない。
「蓮池」があったので、車を止めて撮影する。
この時期に奥志賀に来る人は稀らしく、あまり観光客を見掛けない。
風もなく、蓮池は水面が鏡のようで美しかった。季節外れの白い睡蓮が2輪、咲いていた。
奥志賀では紅葉を撮影するのが目的だったので、あてどもなく走り回る。
しかしまだ紅葉には早かった。ネット情報では「紅葉していると出ていた」とMさんが言った。細い道にも入ってみたが、同じだった。Mさんがスマホで何か調べていた。
そして言った。『滝と牧場があるから、行ってみようか?』
滝はあったが、木々に囲まれてわずかしか見えないし近付けない。
牧場へ行く砂利道を進むと、牧場の入口に看板があった。
中に入ると奥に小屋があったので、そこに車を止めた。
丘の上から牧場主らしき人が来て、『何か用事ですか?』と聞いた。
Mさんは『見学です』と言ったら、オヤジさんは『今日はたまたま柵の壊れた個所を直しに来ていた。普段は入口に鍵を掛けて入れない』と言った。
我々は運良く、牛の放牧の様子を見ることが出来た。
次の目的地は伊那郡箕輪町にある「赤そばの里」である。
ここで昼飯に蕎麦を食べる計画だった。
ところが奥志賀で時間を掛け過ぎたこともあり、箕輪町に着いた時は午後2時を過ぎていた。目的地の蕎麦屋は午後2時で閉店だった。この日も昼飯を食べ損ねた。
駐車場に車を止めて、「赤そば」の畑へ急ぐ。
林を抜けると突然、開けた場所に出て視界が広くなり、一面の「赤そば」の光景だった。畑の広さは4万2000平米もあるそうだ。
「赤そば」というのは資料によると、『1987年にヒマラヤの標高3800メートルのところから、赤い花が咲くそばを日本に持ち帰り、信州大学の(故)氏原暉男名誉教授がタカノ株式会社(宮田村)と共同で開発して真紅の花を作り、「高嶺ルビー」と名付けました』
『その後、長期にわたり品種改良を重ね、2011年に更に赤みを増した「高嶺ルビー2011」が誕生しました。このそばは、花を楽しむばかりではなく、味も良いので、まさに見て楽しみ味わうそばになりました』ということであった。
箕輪町は「赤そば」で町興しをしているそうであった。
(おまけの話)
Mさんは「赤そば」の撮影に熱心に取り組んでいる。
私は20分くらいで飽きてしまったので、先に車に戻って休んでいた。
昨夜の一睡も出来なかった影響が、いま頃になって出て来た。
それから30分以上も経って、Mさんは戻って来た。
次の目的地は塩尻市奈良井町である。
ここは古い宿場町が残っていて、我々は今晩はそこへ泊まるのである。
予約してある高級旅館「BYAKU Narai」に着いた時は、もう薄暗かった。
Mさんが予約したのは彼には珍しく、1泊5万円もする宿だった。
日本酒の醸造元を改造して、もの凄くお洒落な宿となっている。
部屋数は8部屋しかなく、全てが「至れり尽くせり」である。
我々の部屋は道路に面した二階で、そこから町が見下ろせる。
部屋には檜の風呂もあり、キングサイズ・ベッドで快適である。
部屋にテレビを置いていないのが、良い雰囲気を出している。
夕食は酒蔵風の建物で、レストランになっている場所で食べる。
温泉宿で定番のような料理は出ない。全てが創作料理であり、洒落ている。
食後に私は1人で夜の宿場町を歩いてみた。端から端まで約1キロある。
真っ暗で明かりの点いている家は少ない。ホテルに戻りフロントで聞いてみた。
すると『ここは間口が狭く、奥に深い家の作りになっています。昔の税金対策で、間口を狭くしているのです。ですから明かりの点いていない家も、奥の部屋は電気が点いています』と言った。部屋に戻ったら、Mさんはイビキをかいて寝ていた。
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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10/08(日) ふらり旅人からのゲストハウス 自由人 小林圭子氏 〜想いと直感のままに『ポンコタン』
今回の主人公は洞爺湖の近くでゲストハウス『ポンコタン』を営む小林圭子さん。 旭川出身の47歳。 洞爺湖に移住する前は名古屋で商売をされていました。 「北海道には30代後半からバイクにテントを積み、 ふらりと旅しに来ていました。」 洞爺湖との出会いは、 2018年に「幸せのパン」の映画の舞台になったところを見てみたくて 青春18きっぷでふらりとやってきたのが初めてでした。 ところで圭子さん。 なんと言うか・・・。 「以前、どこかで会いましたっけ?」 そんな錯覚を起こさせる人です。 あの、バリアフリーな雰囲気は一体どこからくるのだろうか? 探ってみたくなりました。 旭川から札幌へ。 そしていきなりポン!と名古屋へ飛んだ圭子さんが始めたのは、 なんと”バナナ焼き屋“のお店でした。 店の名前は「パピリカ」。 それはアイヌ語で「豊作」という意味です。 バナナ焼き屋をやろうと思った理由は〜。 「小さい頃から食べていたソウルフードだったから」 ただそれだけの理由で、 古くからお菓子文化が発達している(駄菓子の製造所も多い)名古屋で店を出そうとは、 普通はなかなか考えつかない。 でもそれをひょいっと始めてしまうところが圭子さん流。 深くは悩まない。 やりたいからやる。 ただそれだけ。 そんなシンプルさが、度胸を超えた何かを感じます。 パピリカ時代のHPを見つけました。 熊が鮭ならぬバナナを咥えている姿が なんともユニークで忘れないロゴです。 何事もサラッと話す割には材料にはかなりこだわっています。 卵も牛乳も使用していないので(カスタード以外)、 卵アレルギーや牛乳アレルギーの子どもを持つ親御さんも よく買いに来てくれたそうです。 そして白餡はしっかりと手作り。 バナナ焼きと言えば旭川の名物お菓子。 この時お話を伺うまで知りませんでしたが、 旭川のバナナ焼きにもバナナそのものやバナナエッセンスなど、 バナナフレーバーは一切入っていないそうです。 バナナ焼きとは、形からだけ連想するネーミングのようです。 とても美味しそう〜! 食べたかった〜! パピリカはすぐに地元に溶け込み、 8年間営業を続けました。 その時の繋がりは今も続いていると言います。 人懐っこいと言う表現とも違う、 相手に壁を作らせない不思議な力を圭子さんは持っています。 「いろいろなところから転勤してきた人たちが多く住むところでした。 近所の方がよく買いに来てくださっていましたよ。 家賃を払いつつ、 女ひとりが食べるだけの分はなんとか稼げていました。」 「ところで、ポンコタンは小さな村という意味。 パピリカは豊作という意味ですよね? どちらもアイヌ語ですが、なにか特別な意味があるのですか?」 そんな筆者の質問に 圭子さんはまたもやあっさりと答えます。 「いや、なんとなくです。」 まただ…。 やはりこんな調子…笑 筆者はその言葉の背景を知りたい!と質問をしても、 決してはぐらかす訳ではなく、あくまでもサラッと答える。 想いが至極シンプルだからこそ、 きっとその時の直感のまま「なんとなくそうしよ」と 思った通りに動いてしまうのだろうと思います。 しかも、転機にはだいたい誰かが力を貸してくれる。 これはもう人徳です。 気負わず流れに任せるというのは、実は楽そうで楽ではない。 でも圭子さんは素直に誰かの力を借りながら、 とても自然にその技を使ってしまう。 「名古屋の友人がゲストハウスをしていたんです。 あらたに宮古島でゲストハウスを始めるにあたって、私も少し手伝いました。 その友人は度胸があるというかなんというか、 外国人が結構泊まりに来ていたのですが、英語は喋れないんです。 でもなんてことなくやっているのを見て、 私も妙な自信をつけてしまいました。 『そうか、英語ができなくても宿屋はできるんだ』 ってね。」 「その辺りから、ゲストハウスに興味を持つようになりました。 ちょうど、ふらりと洞爺湖へ足を運ぶ機会も増えていたこともあり、 洞爺湖の近くでゲストハウスをやることが ふわっとしたものから現実的になりました。 あ…その前にバナナ焼き屋を畳まないと。」 そう思った時、 店を丸ごと買いたいと申し出てくれた人が現れました。 それは元々はお客様だった友人で、古民家カフェを営んでいる方でした。 バナナ焼き屋営業終了2日後には洞爺湖に移住してしまうというスピーディーさ。 思ったらサラッと行動! その後、1年半をかけて建物をリフォームし、ポンコタンを開業されました。 「待っていてくれているような気がしていました。 洞爺湖はどっしりとしていて迎え入れてくれるような安心感がある湖だと感じています。 移住してすぐは、キャンプ生活をしながらあるホテルでバイトをしていました。 同時に物件探し。 そんな中、即決したのがこの建物でした。 借金も1000万円以上してしまいました。」 この建物は、昔、ある会社の社員寮だったところ。 なので、一部屋一部屋にトイレが付いていました。 さて、ゲストハウス「ポンコタン」は 内装・外装そのほとんどをDIYしています。 もともと建物に興味があったわけでもなかった圭子さんですが、 もの作り好きであったことが功を奏しました。 「必要に迫られた部分もありますが、 バナナ焼き屋時代に建物の内部構造にものすごく関心を持つようになりました。 そもそもは工事関係者への不満に端を発したのですが、 お陰で建築について色々知ることができました。 建物がどんなふうにできているのかを知るために、 分解しながら構造を理解していきました。 コンクリートにネジを入れるにはどうしたらよいか?とかね。」 冒頭に登場した仕切りに描かれた洞爺湖の絵は、名古屋時代の友人が描いてくれたもの。 「名古屋時代の友人たちは変人が多くて(笑) 尋ねてきては色々置いて行ってくれます。」 困ったふりをして、笑いながら話す圭子さんには、 遠くから支えてくれる友の存在に感じる安心感が表れていました。 圭子さんの仲間たちは、 「ポンコタン」のオーナーの とてつもなく自然体なおもしろキャラクターをよくご存知のようです。 「うちね。コンセプトなんてないのよね。」 圭子さん、突然、そうサラッと言った後でこう続けました。 「よく眠れました!って言ってもらえるのが一番嬉しいかな。 旅の途中で快適な時間をここで過ごしてくれたら、 それが一番嬉しい。 それとね。 今年の夏はすごく忙しかったのね。 借金あるからあと10年はやらないといけないけど、 とりあえず持続可能な宿を目指して働き方改革するわ(笑)」 「10年経ったら何するの?」 そんな問いに。 またもやサラッと 「わからないな」 と答える圭子さんでした。 帰り際 「また来て!」 と軽い調子で言われました。 「うん」 と答えてしまいました。 ポンコタンの魅力は この気安い感じなんだろうと思った筆者でした。 決して気負うことなく、 そのまんまの圭子さんが妙な安心感を与えてくれる取材の時間でした。 ゲストハウス ポンコタン 〒049-5721 北海道虻田郡洞爺湖町洞爺湖温泉97 080-6092-4967
Rietty
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Shinji