
心の伊達市民 第一号
ミッドタウン六本木の中にある高級和菓子店の「とらや」が、小さなギャラリーで「はじめて知る銭湯」というイベントを開催中と知り出掛けて行った。
「とらや」は全国的に有名だが、私はこの店の羊羹は「濃過ぎ」てあまり好まない。
店の歴史を調べてみたらHPによると、『室町時代後期の京都で創業。五世紀にわたり和菓子屋を営んできました。後陽成天皇の御在位中(1586〜1611)より、御所の御用を勤めています。明治2年(1869)東京遷都にともない、天皇にお供して、京都の店はそのままに東京にも進出、現在に至ります』とあった。
甘味処の隣に、お菓子の販売所がある。その一角に今回のイベントの「はじめて知る銭湯」があった。銭湯はかなり昔からあるようで、説明書きには『銭湯は、日々のささやかな息抜きやコミュニケーションの場として親しまれて来ました。健康長寿を願って、菖蒲湯や柚子湯などその季節ならではの湯を楽しむ習慣もあり、和菓子との共通点も見られます』
『関東でよく見られる浴室内の壁画、銭湯ペンキ絵。絵師の1人である田中みずきさんに本展示オリジナルの銭湯ペンキ絵を描いて頂きました。富士山を眺めて、入浴気分を味わいましょう』とある。
私の子供の頃には、我が家に風呂があった。だから風呂が壊れた時など以外では、銭湯に行ったことがあまりない。そのせいか温泉好きとなり、同級生と「秘湯研究会」を立ち上げて各地にある色々な天然温泉に入りに行った。
ここへ越して来た時に、高齢者に100円で入浴できるカードを支給された。
そこで銀座に銭湯があるのを知って、銀座8丁目にある「金春湯」に行ったことがある。この銭湯は150年以上の歴史がある。私が入りに行った時は、近所の板前たちが仕事の前に入りに来ていた。お馴染みさんばかりで、私は隅で小さくなって入っていた。
建物の奥から外へ出たら、芝生広場に真っ赤な構造物が見えた。
2階のテラスに上ってみた。すると、なんとアイススケート・リンクが出来ていた。
時間が昼前ということも関係しているのか、滑っているのは数名だった。
真ん中で1人だけ、演技をしながら滑っている女性がいた。
遠くなので顔まで分からないので、下に降りて近くに行った。
するとこのアイススケート・リンクはアメリカのブランドバッグの「COACH」の提供だった。近くに寄ったら、リンクは少し高い位置に設置されていて、中はよく見えない。
入口に行ってみたら、滑走料金は平日の大人で1800円だった。
時間制限は無いようだが、注意書きに『一度外へ出た場合は、再入場出来ません』と書いてあった。リンクの横に真っ赤なゴジラが置いてあるので、帰ってから調べてみたが、どこにも出ていなかった。「あれはなんだろう?」
桜並木を表道路に向かうと、右手に洒落た白い細長い建物がある。
ここは「21_21 Design Sight」という建物で、中ほどから左右に分かれている。
右側は有料だが、左側は無料で見られる。
この時は無料側は、「THINKING ABOUT MONET」という展示を行っていた。
金属を加工して光線の出方を楽しむ作品だそうだが、とても難解だった。
帰る時に立派な77ページもある解説書をもらったが、それを読んでも分からなかった。
ミッドタウン六本木は、色々と楽しめるところがある。
表通りに面した場所に「富士フィルム・スクエア」では、常に写真展を開催している。
私は六本木に行った時は、必ず立ち寄っている。
今回の写真展は「風の記憶」、「人」、「次世代につなぐ麻布の記憶」、「瀬戸内のメルヘン」、「いのち」の5つの写真展を開催中だった。
その中で「いのち」の写真に圧倒された。牛から皮革になるまでを、大迫力で撮影している。屠殺場こそ登場しないが、「なめし」の場面は凄い迫力である。
(おまけの話)
久し振りに六本木まで来たのだからと思い、外苑東通りを地下鉄「青山一丁目駅」まで歩くことにした。その途中には「乃木神社」がある。
ここも折角だからと、お参りすることにした。
乃木神社のご祭神は「乃木希典と夫人の静子」である。彼は日本の陸軍軍人で1848年12月25日~1912年9月13日までの生涯だったが、1912年7月30日に明治天皇が崩御され、棺を乗せた車が宮城を出発する号砲が打たれた午後8時過ぎに静子夫人と共に先帝に殉じて自刃を遂げたのである。
神社の石段を上ると、右側に手水舎がある。
右の壁際に可愛い紅白の干支の「辰」が並んでいた。
更に進むと、右側に「おみくじ掛け」があったが、初めて見る形だった。
左側には記念撮影用の台があり、手前には「乃木神社参拝記念」の文字、後ろにはこもかぶりの清酒「大関」と大きな干支の辰の絵がある。
久し振りに来たら、なんだか若者向け神社になっていた。
本殿にお参りした後に初めて横に廻ってみたら、ご神木があり説明書きがあった。
『ご神木の由来は、昭和47年例祭前夜に、本来なら銅葺きの本殿へ落雷するはずだったものを、なんとこのクスノキが身代わりになって本殿を守った。一度、雷神の宿ったご縁のものは悪事災難を取り除くとされている』とあった。
色々な神社にそこ独特の縁起を担いだ物語があるので、私にはそれを読むのも神社を参拝する楽しみの1つになっている。
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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ふらり旅人からのゲストハウス 自由人 小林圭子氏 〜想いと直感のままに『ポンコタン』
今回の主人公は洞爺湖の近くでゲストハウス『ポンコタン』を営む小林圭子さん。 旭川出身の47歳。 洞爺湖に移住する前は名古屋で商売をされていました。 「北海道には30代後半からバイクにテントを積み、 ふらりと旅しに来ていました。」 洞爺湖との出会いは、 2018年に「幸せのパン」の映画の舞台になったところを見てみたくて 青春18きっぷでふらりとやってきたのが初めてでした。 ところで圭子さん。 なんと言うか・・・。 「以前、どこかで会いましたっけ?」 そんな錯覚を起こさせる人です。 あの、バリアフリーな雰囲気は一体どこからくるのだろうか? 探ってみたくなりました。 旭川から札幌へ。 そしていきなりポン!と名古屋へ飛んだ圭子さんが始めたのは、 なんと”バナナ焼き屋“のお店でした。 店の名前は「パピリカ」。 それはアイヌ語で「豊作」という意味です。 バナナ焼き屋をやろうと思った理由は〜。 「小さい頃から食べていたソウルフードだったから」 ただそれだけの理由で、 古くからお菓子文化が発達している(駄菓子の製造所も多い)名古屋で店を出そうとは、 普通はなかなか考えつかない。 でもそれをひょいっと始めてしまうところが圭子さん流。 深くは悩まない。 やりたいからやる。 ただそれだけ。 そんなシンプルさが、度胸を超えた何かを感じます。 パピリカ時代のHPを見つけました。 熊が鮭ならぬバナナを咥えている姿が なんともユニークで忘れないロゴです。 何事もサラッと話す割には材料にはかなりこだわっています。 卵も牛乳も使用していないので(カスタード以外)、 卵アレルギーや牛乳アレルギーの子どもを持つ親御さんも よく買いに来てくれたそうです。 そして白餡はしっかりと手作り。 バナナ焼きと言えば旭川の名物お菓子。 この時お話を伺うまで知りませんでしたが、 旭川のバナナ焼きにもバナナそのものやバナナエッセンスなど、 バナナフレーバーは一切入っていないそうです。 バナナ焼きとは、形からだけ連想するネーミングのようです。 とても美味しそう〜! 食べたかった〜! パピリカはすぐに地元に溶け込み、 8年間営業を続けました。 その時の繋がりは今も続いていると言います。 人懐っこいと言う表現とも違う、 相手に壁を作らせない不思議な力を圭子さんは持っています。 「いろいろなところから転勤してきた人たちが多く住むところでした。 近所の方がよく買いに来てくださっていましたよ。 家賃を払いつつ、 女ひとりが食べるだけの分はなんとか稼げていました。」 「ところで、ポンコタンは小さな村という意味。 パピリカは豊作という意味ですよね? どちらもアイヌ語ですが、なにか特別な意味があるのですか?」 そんな筆者の質問に 圭子さんはまたもやあっさりと答えます。 「いや、なんとなくです。」 まただ…。 やはりこんな調子…笑 筆者はその言葉の背景を知りたい!と質問をしても、 決してはぐらかす訳ではなく、あくまでもサラッと答える。 想いが至極シンプルだからこそ、 きっとその時の直感のまま「なんとなくそうしよ」と 思った通りに動いてしまうのだろうと思います。 しかも、転機にはだいたい誰かが力を貸してくれる。 これはもう人徳です。 気負わず流れに任せるというのは、実は楽そうで楽ではない。 でも圭子さんは素直に誰かの力を借りながら、 とても自然にその技を使ってしまう。 「名古屋の友人がゲストハウスをしていたんです。 あらたに宮古島でゲストハウスを始めるにあたって、私も少し手伝いました。 その友人は度胸があるというかなんというか、 外国人が結構泊まりに来ていたのですが、英語は喋れないんです。 でもなんてことなくやっているのを見て、 私も妙な自信をつけてしまいました。 『そうか、英語ができなくても宿屋はできるんだ』 ってね。」 「その辺りから、ゲストハウスに興味を持つようになりました。 ちょうど、ふらりと洞爺湖へ足を運ぶ機会も増えていたこともあり、 洞爺湖の近くでゲストハウスをやることが ふわっとしたものから現実的になりました。 あ…その前にバナナ焼き屋を畳まないと。」 そう思った時、 店を丸ごと買いたいと申し出てくれた人が現れました。 それは元々はお客様だった友人で、古民家カフェを営んでいる方でした。 バナナ焼き屋営業終了2日後には洞爺湖に移住してしまうというスピーディーさ。 思ったらサラッと行動! その後、1年半をかけて建物をリフォームし、ポンコタンを開業されました。 「待っていてくれているような気がしていました。 洞爺湖はどっしりとしていて迎え入れてくれるような安心感がある湖だと感じています。 移住してすぐは、キャンプ生活をしながらあるホテルでバイトをしていました。 同時に物件探し。 そんな中、即決したのがこの建物でした。 借金も1000万円以上してしまいました。」 この建物は、昔、ある会社の社員寮だったところ。 なので、一部屋一部屋にトイレが付いていました。 さて、ゲストハウス「ポンコタン」は 内装・外装そのほとんどをDIYしています。 もともと建物に興味があったわけでもなかった圭子さんですが、 もの作り好きであったことが功を奏しました。 「必要に迫られた部分もありますが、 バナナ焼き屋時代に建物の内部構造にものすごく関心を持つようになりました。 そもそもは工事関係者への不満に端を発したのですが、 お陰で建築について色々知ることができました。 建物がどんなふうにできているのかを知るために、 分解しながら構造を理解していきました。 コンクリートにネジを入れるにはどうしたらよいか?とかね。」 冒頭に登場した仕切りに描かれた洞爺湖の絵は、名古屋時代の友人が描いてくれたもの。 「名古屋時代の友人たちは変人が多くて(笑) 尋ねてきては色々置いて行ってくれます。」 困ったふりをして、笑いながら話す圭子さんには、 遠くから支えてくれる友の存在に感じる安心感が表れていました。 圭子さんの仲間たちは、 「ポンコタン」のオーナーの とてつもなく自然体なおもしろキャラクターをよくご存知のようです。 「うちね。コンセプトなんてないのよね。」 圭子さん、突然、そうサラッと言った後でこう続けました。 「よく眠れました!って言ってもらえるのが一番嬉しいかな。 旅の途中で快適な時間をここで過ごしてくれたら、 それが一番嬉しい。 それとね。 今年の夏はすごく忙しかったのね。 借金あるからあと10年はやらないといけないけど、 とりあえず持続可能な宿を目指して働き方改革するわ(笑)」 「10年経ったら何するの?」 そんな問いに。 またもやサラッと 「わからないな」 と答える圭子さんでした。 帰り際 「また来て!」 と軽い調子で言われました。 「うん」 と答えてしまいました。 ポンコタンの魅力は この気安い感じなんだろうと思った筆者でした。 決して気負うことなく、 そのまんまの圭子さんが妙な安心感を与えてくれる取材の時間でした。 ゲストハウス ポンコタン 〒049-5721 北海道虻田郡洞爺湖町洞爺湖温泉97 080-6092-4967
Rietty
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