
心の伊達市民 第一号
数寄屋橋交差点の近くを歩いていると、交番の裏に宝くじ売り場「西銀座チャンスセンター」が見える。
普段は人を見掛けないが、ジャンボくじが売り出されると長い行列が出来る。
売場は6ヵ所あるが1番窓口が人気のようで、そこだけに集中している。
近年の当選を見たら、年末ジャンボでは2019年は7億円×2本、2020年はゼロ、21年は7億円×1本、2022年も7億円×1本、23年はゼロだった。しかしこれらが1番売場から出たかどうかは分からない。
1番売場へ到達する道は、ロープで狭く区切られている。
これを「億の細道」と言う。誰が考えたか、上手い! 「座布団1枚」と言いたい。
道の両側には何ヵ所も「億の細道」と書かれた札が立っている。
2番から6番までの売場はどうやら「億の細道」ではないらしく、行列はほとんど無い。
年末ジャンボの売り出しの時は、その列は100メートル近くもあり、私が乗るバス停まで続いている。私は宝くじを買わないので、いつも「寒い中をご苦労さま」と言いたい気持ちで見ている。
このブログを書く上で、「抽選機」はなんという名前なのかを調べてみた。
すると通称は「ガラポン」、「ガラガラ」であるが、正式名は「新井式回転抽選器」と言うのだと初めて知った。今は時代が変わりガラポンは無くなり、買い物をするとポイントが付く。
昔は町の商店街で買い物をして、抽選券をもらう。それを持って抽選場に行く。
ガラポンを廻す。勢いが良過ぎると、玉は出て来ない。ある程度、ゆっくりと廻す。
この時は何色が出るかとドキドキし、結構楽しかった覚えがある。赤玉がハズレだったような覚えがある。
私は宝くじはほとんど買わないが、子供の頃は歳末セールのガラポンが好きだった。
家族で吉祥寺に買い物に行った時に、抽選会場で父親から『おまえが廻してみろ』と言われた。私がガラポンを廻したら、なんと1等の洋服ダンスが当たった。
その時に商店街の責任者から、思い掛けないことを頼まれた。
責任者が父に言った。『申し訳けないが初日に1等が出てしまうと、あとの楽しみが無くなるので、発表はしばらくしないようにします』。
多分だが、それ以来、1等の玉はセール中頃まで、ガラポンに入れないようにしているかも?
3月中旬に、宝くじドリーム館で月例のコンサートがあった。
浅草に行く用事があったので、12時からのコンサートを聞いてから行くことにした。宝くじドリーム館は地下鉄・浅草線の「宝町」にあるので、浅草は同じ路線で少し先である。宝くじドリームセンターに着いて、ショーウィンドーを覗いてビックリした。
なんと昨年末の「年末ジャンボ宝くじ」の1等7億円と前後賞1億5000万円を含め、当たっているのに引き換えに来ない、1億円以上の枚数は「18枚」もある。
金額にすると、いくらになるか?
12時丁度にコンサートは始まった。
今回の演目はオペラで、パンフレットによると『オペラいいとこどり「カルメン・ハイライト』であった。男性ピアニスト、カルメン(メゾソプラノ)、騎兵長(テノール)、闘牛士(バリトン)の4人が登場する。
舞台は無く、我々の席の前で歌い演技する。私からは5メートルくらいの距離だ。
カルメンがある場面で私の横に来て、顔を近付けて歌ったのには参った。
全4幕だが、ピアノ奏者と騎兵長が幕間に次の物語と場面の説明をする。
私はオペラに慣れていないので、カルメンと騎兵長の甲高い声に居心地が悪い。
フランス語で歌っているらしいが、何を言っているのか全く分からない。
これは例えてみれば、歌舞伎を初めて見た外国人と同じ感じだろう。
アンコールで再登場して、美空ひばりのヒット曲「愛燦燦」を歌ったが、これが私には一番心地良かった。
(おまけの話)
少し前に「宝くじドリーム館」でクラシック・コンサートを聞きに行った時に、係の女性から抽選会の案内を聞いた。3月22日12時から、そこでバレンタイン・ジャンボの抽選会があると知った。
テレビでお馴染みの抽選会は「どこでやっているのだろう?」と、気になっていた。
そこで同級生を誘って見に行く企画を立てたが、日程が合わず賛同者も無く中止となった。宝くじドリーム館は京橋で近いので、私は1人で見に行った。
私は宝くじを買っていないで見に行ったのだから、当選番号には興味が無い。
混み合って写真が撮れないといけないと思い、11時15分に行ったら誰も来ていなかった。2回のリハーサルが終り、12時になり本番となった。
その時には11人の観客が来ていた。「みずほ銀行」から2人の立会人が来ていた。
数字が書かれた円盤が、電気仕掛けで廻される。大きな桁から順番に矢が放たれるが、早いし小さくて見えない。円盤が停止した時点で、女性が順番に矢の当たった番号を読み上げる。会場は静かで、厳粛な雰囲気だった。
読み上げた番号が合っていれば、立会人が右手を上げる。
これを7等の下1桁の300円から、1等賞の2億円まで7回、粛々と行った。
3等の時に矢が円盤に刺さらず、その円盤だけやり直しとなった。
最初は12時から「ミニ・バレンタイン・ジャンボ」で、次が12時30分から「バレンタイン・ジャンボ」の抽選となり、全部で1時間近くになった。
来ていた人の殆どはネット会員になっているらしく、自分のスマホにある抽選券を確認していた。1人だけ抽選券を持っているジジイがいた。それとなにも持っていない私だけが、変な人だった。
【1等/当選番号】・・49組 138811
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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確固たる想いを洞爺湖で実現させたい! 〜『湖の膳舎 なかむら』 和食職人 中村 悠佑氏〜
2023.4.25 OPEN以来、ずっと気になっていた方をようやく取材することができました。 今回の主人公は『湖の膳舎 なかむら』代表 中村 悠佑さん 千葉県出身、東京都育ち、1児のパパです。 “ My洞爺湖! “ そんな勘違いをしてしまいそうになる景色。 広い窓いっぱいに洞爺湖が見渡せる贅沢空間にその店舗は存在しています。 和食職人と言うと、中学校を出て直ぐ料理の修行をするようなイメージがありましたが、中村さんは和食職人としては珍しい大卒者です。 「本当は、高校を出たら直ぐに飲食業につきたいと思っていました。早くこの世界に入りたかったのです。けれども、親の説得を受けて大学へ行くことになりました」。 とにかく飲食業が好きだった中村さんは、高校一年生の時からファミリーレストランやイタリアンレストランで、大学に入学してからは居酒屋でアルバイトをする日々でした。 「大学では文学部に所属していました。 実はあるリース会社に就職も内定していました。 でも、居酒屋でアルバイトしていた時に感じた、お客様が料理とお酒を楽しんでいる雰囲気がとても好きだったという気持ちを捨てきれず、どうしても飲食業への道が諦められず、その会社を断ってしまいました」。 そんな中村さんが大学卒業後に選んだのは調理師専門学校への入学でした。 「最初はフレンチ志望でした。 かっこ良く見えたんでしょうね。 授業では、和・洋・中をそれぞれ学ぶのですが、授業の中で試食をした時に体にも舌にも自分は和食に向いていると実感しました」。 専門学校卒業後、中村さんは赤坂や新宿の料亭で働き始めました。 修行時代の始まりです。 「就職して初めて飲食業の本当の厳しさを知りました。 労働環境は劣悪でしたよ笑 勤務時間は07:00~25:00 休みの日も糠床をかき混ぜるために出勤していました。 それでもそれほど辛いとは感じなかった。 修行時代を6年ほど過ごし、独立を決めました」。 29歳の時に独立を決めた中村さんは、東京中野の駅前に店舗を構えました。 30席もある店だったそうです。 “ この人みたいになりたい! と憧れる人はいない “ ときっぱり言い切った中村さん。 どこかで聞いたことがある…と思ったら、大谷選手が言った言葉でした。 「え?彼もそんなことを言っていましたか」。と、ご存知なかったご様子。 「修行時代、味付けはさせてもらえませんでした。味付けは最高の位置にいる人の仕事ですからね。 だから、味覚のトレーニングと料理の独自の研究は常に怠りませんでした。 自分の味付けは自分の店を始めてから学びました」。 なるほど。 以前、ある方から、洗い物をする時に鍋についたものやお客様の皿を舐めて味を覚えたという話を聞いたことがありましたが、やはり料理人の世界は厳しいのですね。 「妻は自身で店を持つことを夢に持ち割烹料理店で修行しており、2人で店をスタートしました。東京のお店は住宅街のひっそりとした場所で始めましたが、そこの住宅街にお住まいのお客様はもちろん、近隣の会社様の接待の需要も有り様々なお客様にお越し頂いておりました。その店は、12年間営んでいましたが、北海道行きを決め2023年1月31日に閉じました」。 きっと惜しまれつつ閉じられたのだと思います。 それが証拠に、その時のお客様が東京から洞爺湖までお食事にいらっしゃると言います。 「中村が洞爺湖に店を出したらしいと聞きつけた中野の割烹料理屋時代のお客様がわざわざ来てくださいました。 本当にありがたいです」。 「ところで、何故、洞爺湖を選ばれたのですか?」 「妻の美佳が北斗市出身なのです。いま娘は3歳なのですが、子育ては自然豊かな北海道で育てたいと予々考えていました。そういう視点で北海道を旅した時に、洞爺湖がとても気に入りました。移住するならここが良いなと。でも、果たしてここで商売が成り立つのか? とても不安でした」。 そんな心配を余所に、オープン直後から多くの客様が足を運ぶ店となりました。 「雑誌の「Poroco」や「Ho」に掲載されたことは大きな宣伝になり、とても感謝しています。 札幌圏の方も来てくださるようになりました。ですのでお陰様で夏は順調でした。でも、冬が心配だった。ところが、今度はインバウンドのお客様もたくさん来てくださるようになりました。 シンガポール・タイ・台湾の方が多いです。 海外のお客様は積極的にGoogleにコメントを入れてくださいますので、それをご覧になったお客様がまた来てくださいます」。 予約専門のお店のため、来店者数に合わせて仕込みができるのも強みのようです(席が空いていれば飛び込みも受け付けてくださるそう)。 「どのお料理も素材の味が最大限に生かされていますが、取引先の生産者さんはどのように選ばれているのですか?」 「洞爺湖に引っ越してきたのは2023年の2月で、店のオープンは4月でしたので、野菜は根菜くらいしか手に入らない時期でした。お米は移住前から財田米を食べ比べ、宮内農園さんのお米を食べて「この美味しいお米なら洞爺でお店が出来る」と確信を持てました。宮内農園の佐々木ご夫妻には他の農家さんをご紹介頂いたり、自分達で道の駅で買って美味しかった農家さんにアポを取ってみたりとオープン前は奔走の毎日でした。出来るだけ地元の食材を利用し、地元の方にこんな美味しい食材が地元に有ったんだ!と再発見していただけるようなお店を作っていきたいです」。 特別なものを使うのではなく、地元の方がよく食べているものを使いたいという考え方は素敵だと思いました。 「地元食材を使いながらも、今まで無かった店、今まであまり食べる機会が無かった料理を、職人技で提供する店になりたいと考えています。 とは言え、いまは未だ試行錯誤の段階です。 地元の方に足を運んでいただくためには地域性も大切にしなければいけませんから」。 「ところで、お二人にお尋ねします。移住して良かったなあ〜と思う瞬間てどんな時ですか?」 「最高の食材がすぐ身近にあることが幸せです。 娘がのびのびと成長していると感じる時もまた移住して良かったと感じます」。と悠佑さん。 「洞爺湖を眺めながら大好きな温泉に入っている時です!笑」と美佳さん。 明るい美佳さんは早くも常連さんの人気者です。 「最後に目指しているスタイルがあればお聞かせいただけますか?」 「洞爺湖ならではの和食の店を確立したいです。この素晴らしい借景の中で、洞爺湖でしか食べられないものを提供したい。そのためにも、もっともっと洞爺湖のことを知りたいですし、洞爺湖の食材のことを研究したいです」。 そう力強く語った中村さんの元に、保育園から帰ってきた娘さんが「ありがとうございます!」と言いながらニコニコと現れました♡ ―湖の膳舎 なかむら 情報― 電話 080-9269-2578 住所 北海道虻田郡洞爺湖町洞爺湖温泉186-85 Instagram https://www.instagram.com/nakamura0321?igsh=MWR1bm9ieTBya28yNw==
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