
心の伊達市民 第一号
なにで見たかはハッキリしないが、「気象神社」という名の神社があると知った。
しかも都内にあると知り、見に行くことにした。
その理由は今年の桜を、目黒川のクルーズで見る予約をしたからだ。
女房の友人夫婦も交じえて6人で行くことになり、私が予約をした。
昨年の様子から「3月31日」が満開と予想して、2月中旬にクルーズ会社に予約を入れた。
ところが2月後半に真夏のような日が続き、桜の開花が早まるのではないかと思われた。そこで3月31日の予約を、3月25日に変更した。ところがである。3月初旬を過ぎた頃から、寒い日が続いた。
NHKの天気予報でも、最初は「東京地方の開花は3月18日」と言っていたのが21日に延び、その後にまた延びて3月24日となったのである。そこで再度、予約を変更して「4月1日」にしたのである。
こんなことが続いたので、天気予報に気を付けていた時に、偶然にも「気象神社」という名の嘘のような神社を見付けたのであった。その神社はJR中央線の「高円寺駅」近くにあると分かり、早速出掛けて行った。
すぐに神社を見付けたが、名前が「氷川神社」なので、「気象神社は通称なのだな」と勝手に思った。神社は立派な建物で、お賽銭も入れて「二礼二拍一礼」でお参りした。
出口に向かったら、右手に大きな「気象神社 左手参道正面」の看板があった。
私のお参りしたのは氷川神社で、同じ境内に気象神社があるのに気が付かなかった。
左に進んだら、また鳥居があった。
その奥に小さな神社が見えた。氷川神社の10分の1くらいである。
最近は注意力散漫の上に早とちりが多く、こんな失敗は日常茶飯事となってしまった。
神社のパンフレットによると、『気象神社は1944年、大日本帝国陸軍の陸軍気象部の構内に造営された。軍にとって気象条件は戦略、作戦を講じるのに大変な要素であったため、科学的根拠に基づいた予報がされていたが、予報的中を祈願するなど、』
『気象観測員の心の拠り所とされていた。戦後の神道指令で撤去されるはずが調査漏れにより残存した。先々代宮司の山本実が受け入れを決断して、氷川神社に遷座されることになった』とある。
鳥居をくぐり中に入ると、右側に大量の下駄が吊り下げられている。
これは願掛けの絵馬で、「晴れ」を願ってお参りした人達の絵馬である。
昔は「下駄占い」と言って、「あした天気になーれ」と言いながら履いている下駄の片方を蹴り上げた遊びに由来している。
私も子供の頃に、やった覚えがある。下駄が上向きなら「晴れ」、裏返しなら「雨」、横向なら「雪」だった。絵馬には男女の名前と結婚式場が書かれている。とても微笑ましい。
改めて「気象神社」にお参りした。
そこで「4月1日の目黒川の桜の満開と、晴れの天気」をお願いしたのである。本家の氷川神社の方には、なにも特別な絵馬は無い。なんだか昔の諺にある「軒先を貸して母屋を取られる」みたいな感じだ。
下駄絵馬は片方だけで、1つ800円もする。
神社にとっては「母屋を取られても良い」と思える収入だ。
(おまけの話)
久し振りに高円寺に行ったので、少し町を散策してみた。
以前に「ねじめ正一」が「高円寺純情商店街」という小説を書いてから、世間に知られるようになった。駅北口のここには200店の商店があり、狭い路地には小さな活気のある店がひしめき合っている。
また若者には住みやすい町らしく、不動産屋の看板をみると「ワンルーム・家賃4万円」からある。物価も安いようだし、新宿までも近い。とても面白い魅力的な町だった。
昼になったので、昼飯を食べるところを探してウロウロした。
そうしたら「自家製焼小龍包」の看板の店があった。
台湾の下町風の店構えで、入口にドアは無い。
「小龍包」は好きで時々、食べるが、「焼小龍包」は食べたことが無い。
店に入り「焼小龍包3個と雲吞麺セット」(1050円)を注文した。
店の人達は台湾人だけらしく、彼らは台湾語で話している。
久し振りに台湾に行ったような気分になり焼小龍包を食べたが、私は焼かない方が好きだった。
食後にコーヒーでも飲みながら休憩し、読みかけの小説を読むことにした。
駅の傍に「ドトール珈琲店」があったので、中に入った。
席に案内されたら、1人用のボックス席であった。
「なにか変だな」と思いメニューを見たら、いつもは250円くらいのホットコーヒーが「550円」になっていた。私は知らなかったが、ドトールには色々なブランドがあるようで、私の入った店は高級店の「ドトール珈琲店」だった。
そこで開き直って「ケーキセット」を注文し、ゆっくりと時間を過ごしたのである。
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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今回の主人公は洞爺湖の近くでゲストハウス『ポンコタン』を営む小林圭子さん。 旭川出身の47歳。 洞爺湖に移住する前は名古屋で商売をされていました。 「北海道には30代後半からバイクにテントを積み、 ふらりと旅しに来ていました。」 洞爺湖との出会いは、 2018年に「幸せのパン」の映画の舞台になったところを見てみたくて 青春18きっぷでふらりとやってきたのが初めてでした。 ところで圭子さん。 なんと言うか・・・。 「以前、どこかで会いましたっけ?」 そんな錯覚を起こさせる人です。 あの、バリアフリーな雰囲気は一体どこからくるのだろうか? 探ってみたくなりました。 旭川から札幌へ。 そしていきなりポン!と名古屋へ飛んだ圭子さんが始めたのは、 なんと”バナナ焼き屋“のお店でした。 店の名前は「パピリカ」。 それはアイヌ語で「豊作」という意味です。 バナナ焼き屋をやろうと思った理由は〜。 「小さい頃から食べていたソウルフードだったから」 ただそれだけの理由で、 古くからお菓子文化が発達している(駄菓子の製造所も多い)名古屋で店を出そうとは、 普通はなかなか考えつかない。 でもそれをひょいっと始めてしまうところが圭子さん流。 深くは悩まない。 やりたいからやる。 ただそれだけ。 そんなシンプルさが、度胸を超えた何かを感じます。 パピリカ時代のHPを見つけました。 熊が鮭ならぬバナナを咥えている姿が なんともユニークで忘れないロゴです。 何事もサラッと話す割には材料にはかなりこだわっています。 卵も牛乳も使用していないので(カスタード以外)、 卵アレルギーや牛乳アレルギーの子どもを持つ親御さんも よく買いに来てくれたそうです。 そして白餡はしっかりと手作り。 バナナ焼きと言えば旭川の名物お菓子。 この時お話を伺うまで知りませんでしたが、 旭川のバナナ焼きにもバナナそのものやバナナエッセンスなど、 バナナフレーバーは一切入っていないそうです。 バナナ焼きとは、形からだけ連想するネーミングのようです。 とても美味しそう〜! 食べたかった〜! パピリカはすぐに地元に溶け込み、 8年間営業を続けました。 その時の繋がりは今も続いていると言います。 人懐っこいと言う表現とも違う、 相手に壁を作らせない不思議な力を圭子さんは持っています。 「いろいろなところから転勤してきた人たちが多く住むところでした。 近所の方がよく買いに来てくださっていましたよ。 家賃を払いつつ、 女ひとりが食べるだけの分はなんとか稼げていました。」 「ところで、ポンコタンは小さな村という意味。 パピリカは豊作という意味ですよね? どちらもアイヌ語ですが、なにか特別な意味があるのですか?」 そんな筆者の質問に 圭子さんはまたもやあっさりと答えます。 「いや、なんとなくです。」 まただ…。 やはりこんな調子…笑 筆者はその言葉の背景を知りたい!と質問をしても、 決してはぐらかす訳ではなく、あくまでもサラッと答える。 想いが至極シンプルだからこそ、 きっとその時の直感のまま「なんとなくそうしよ」と 思った通りに動いてしまうのだろうと思います。 しかも、転機にはだいたい誰かが力を貸してくれる。 これはもう人徳です。 気負わず流れに任せるというのは、実は楽そうで楽ではない。 でも圭子さんは素直に誰かの力を借りながら、 とても自然にその技を使ってしまう。 「名古屋の友人がゲストハウスをしていたんです。 あらたに宮古島でゲストハウスを始めるにあたって、私も少し手伝いました。 その友人は度胸があるというかなんというか、 外国人が結構泊まりに来ていたのですが、英語は喋れないんです。 でもなんてことなくやっているのを見て、 私も妙な自信をつけてしまいました。 『そうか、英語ができなくても宿屋はできるんだ』 ってね。」 「その辺りから、ゲストハウスに興味を持つようになりました。 ちょうど、ふらりと洞爺湖へ足を運ぶ機会も増えていたこともあり、 洞爺湖の近くでゲストハウスをやることが ふわっとしたものから現実的になりました。 あ…その前にバナナ焼き屋を畳まないと。」 そう思った時、 店を丸ごと買いたいと申し出てくれた人が現れました。 それは元々はお客様だった友人で、古民家カフェを営んでいる方でした。 バナナ焼き屋営業終了2日後には洞爺湖に移住してしまうというスピーディーさ。 思ったらサラッと行動! その後、1年半をかけて建物をリフォームし、ポンコタンを開業されました。 「待っていてくれているような気がしていました。 洞爺湖はどっしりとしていて迎え入れてくれるような安心感がある湖だと感じています。 移住してすぐは、キャンプ生活をしながらあるホテルでバイトをしていました。 同時に物件探し。 そんな中、即決したのがこの建物でした。 借金も1000万円以上してしまいました。」 この建物は、昔、ある会社の社員寮だったところ。 なので、一部屋一部屋にトイレが付いていました。 さて、ゲストハウス「ポンコタン」は 内装・外装そのほとんどをDIYしています。 もともと建物に興味があったわけでもなかった圭子さんですが、 もの作り好きであったことが功を奏しました。 「必要に迫られた部分もありますが、 バナナ焼き屋時代に建物の内部構造にものすごく関心を持つようになりました。 そもそもは工事関係者への不満に端を発したのですが、 お陰で建築について色々知ることができました。 建物がどんなふうにできているのかを知るために、 分解しながら構造を理解していきました。 コンクリートにネジを入れるにはどうしたらよいか?とかね。」 冒頭に登場した仕切りに描かれた洞爺湖の絵は、名古屋時代の友人が描いてくれたもの。 「名古屋時代の友人たちは変人が多くて(笑) 尋ねてきては色々置いて行ってくれます。」 困ったふりをして、笑いながら話す圭子さんには、 遠くから支えてくれる友の存在に感じる安心感が表れていました。 圭子さんの仲間たちは、 「ポンコタン」のオーナーの とてつもなく自然体なおもしろキャラクターをよくご存知のようです。 「うちね。コンセプトなんてないのよね。」 圭子さん、突然、そうサラッと言った後でこう続けました。 「よく眠れました!って言ってもらえるのが一番嬉しいかな。 旅の途中で快適な時間をここで過ごしてくれたら、 それが一番嬉しい。 それとね。 今年の夏はすごく忙しかったのね。 借金あるからあと10年はやらないといけないけど、 とりあえず持続可能な宿を目指して働き方改革するわ(笑)」 「10年経ったら何するの?」 そんな問いに。 またもやサラッと 「わからないな」 と答える圭子さんでした。 帰り際 「また来て!」 と軽い調子で言われました。 「うん」 と答えてしまいました。 ポンコタンの魅力は この気安い感じなんだろうと思った筆者でした。 決して気負うことなく、 そのまんまの圭子さんが妙な安心感を与えてくれる取材の時間でした。 ゲストハウス ポンコタン 〒049-5721 北海道虻田郡洞爺湖町洞爺湖温泉97 080-6092-4967
Rietty
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