ブログ閉鎖中の話題(2017年9月15日)

「芸大」の話である。芸大とは「東京藝術大学」の略称である。
ここは日本でただ一校だけの国立の芸術大学で歴史は古く、今年で創立130年になる。
私は芸術はさっぱりだが、芸大卒の友達というと不遜であるが、知り合いは多い。
芸大は国立大学なので芸術以外の受験科目もあるので、型破りの芸術バカは合格出来ない。


上野公園の西郷さんは浴衣姿。  鹿児島の西郷さんは軍服姿。



私が親しく話をしたことのある芸大卒の有名人に、以下のような人達がいる。
北海道伊達市で知り合った画家の野田弘志氏、同じく今年亡くなった元芸大教授だった大藪雅孝氏、女房の同級生の画家のX子さん、かなり前に三鷹駅近くのJR線路の施設に放火した犯人のヨシュアの父親の野田哲也は版画家、野田哲也家のパーティで知り合った池田満寿夫氏は芸大の入試に2回も失敗した。しかし画家、版画家、小説家、陶芸家、作家、映画監督とマルチな才能を発揮した。


ホームレス達は、この日は芸大に居場所を取られてしまった。



さて、こんな前置きを書いたのは、私が今年の芸大の学園祭に行ったからである。
今までに一度も行ったことが無かったが、雑誌で見たら面白そうなので行くことにした。東京藝術大学の学園祭は思いっ切り縮めて「芸祭」と呼ぶ。

今年は9月8日から10日までの3日間で行われた。今年のテーマは「ねぇ」だそうだ。
芸術家でない私には、その意味がなんだかよく分からない。


校門を入ると巨大な像が・・・。私には良く分からない。



芸大は大江戸線の「上野御徒町駅」で降りると、歩いて20分は掛かる。
一番近いJR山手線の「公園口」からでも10分は掛かる。
芸祭は人気があるらしく、芸大へ続く道は大勢の人が歩いて行くので迷うことは無い。
上野公園のホームレスの溜り場が、今日ばかりは芸大祭のアートマーケットの会場になってしまい、行き場のなくなった彼らは少し離れた場所から遠巻きにしていた。


音楽学部の生徒達が入れ代わり立ち代わり、ロック風の演奏をしていた。



芸大の校門を入ると巨大なハリボテの彫刻がある。
その先に生徒達が出している売店が続き、奥ではロック・コンサートをやっている。
かなり多くの人達が見に来ているのだが、見るからに芸術家風の人は殆どいない。
顔で芸術をするわけじゃないと分かってはいるが、凡人とは違い、もっと奇妙奇天烈な人達が来ているのかと思っていた。


学生達が出している飲食の店。看板だけは芸術家らしい。



校舎に入り、教室に行ってみる。
音楽学部の教室は小さく区切られていて、少人数かマンツーマンの教育が行われている様子が窺われる。美術学部の方はもう少し大きな教室で、各教室で生徒達が自分の作品を展示している。少しでも自分の作風を出そうと頑張っているせいか、私でも「下手糞だなー」と感じる絵もある。オーソドックスな絵なら、過去の偉大な芸術家に敵うわけがないからだろう。


音楽学部の生徒達がクラシック音楽を演奏。蓄音機コンサートを聞いたが、良かった。



芸大を卒業後、芸術で食べていける人はどのくらいいるのだろう?
100人に1人、いや1000人に1人くらいかもしれない。
多くは夢破れて、学校の美術や音楽の先生になるのだろうと思う。
それでも芸術を目指す人は、大した考えも無くサラリーマンになる人より満足しているのかもしれない。私は芸術の才能が無くて、かえって良かったかもしれないなー。


両側は音楽学部の教室。 学食で食べたカレーは310円だった。



(おまけの話)
芸大に行く時には、上野公園の中を突っ切って行くのが一番早い。
春は花見客で大混乱となる公園も、9月は特に目ぼしいものも無いので閑散としている。僅かに大道芸人がパフォーマンスをしているだけである。
昔は上野公園と言えば「西郷隆盛像」であったが、今では全く忘れられてしまっている。


芸祭のハッピを着た女学生。背中の文字は誇らしげに「藝」となっていた。



私の上野公園の思い出で、古い話は「浮浪児」である。
もう今から70年近く前の話だが、オヤジが浅草橋にあった取引先に行った帰りに上野公園で浮浪児を拾って帰って来た。そして彼をオヤジの工場で働かせて、面倒を見た。

彼は休憩時間を利用して、いつも勉強をしていた。そして20年くらい後に独立して高利貸しになった。彼は上野公園で、金の価値を嫌というほど学んだのだろう。


これも彫刻作品。             題名「縁起が良いにもほどがある」



次の機会は1973年に始まった「オイルショック」の時である。
日本はイランの石油が欲しくて、イランとの間にビザ免除協定を結んだ。
日本政府はまさか、イラン人が大量に日本に来るとは思っていなかったのである。

私は「上野公園にイラン人が大勢いる」との情報で、面白半分に見に行ったら、大勢のイラン人に取り囲まれて怖い思いをした。私が革ジャンを着てサングラスを掛けていたので、刑事と間違われたのである。あの頃も今も変らず好奇心旺盛な私である。


 どちらの作品も私に理解不能。


伊達季節移住のススメ 心の伊達市民 第一号

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北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。

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