
心の伊達市民 第一号
元旦の朝は・・・。
元旦の朝はいつもより少し遅く起き出した。
午前7時に窓から外を見たら、初日の出が丁度、出るところだった。
普通は地平線から太陽が昇るのだが、高層ビルが乱立しているこの辺りではビルの横から太陽が顔を出す。慣れないと、変なものである。

「初日の出」が六本木ヒルズのビルに反射しているのが見えた。
「初日の出」を拝んだ後に、家族写真を撮った。ぺットのネコ2匹も一緒に撮った。撮影が終り、いよいよ今年初めての朝食となり、女房の手作りのお節料理がテーブルに並ぶ。
女房が「綺麗な写真に撮って!」と言うが、私の腕ではなかなか気に入ってもらえない。

我が家のお節料理は女房の手作りである。
朝食が済むと、もうやることが無い。
前夜の天気予報では「東京地方の最低気温はマイナス1.3℃」と伝えていた。
そこで「もしかして」と思い、日比谷公園の「鶴の池」に行くことにした。
この池の「鶴の噴水」は寒いマイナス気温の日が続くと、鶴の羽からツララが下るのである。これがなんとも良い写真になる。しかし昨年は凍らなかった。

コロナで帰省しない住民が多いらしく、ゴミ置き場はゴミで溢れていた。
都バスで有楽町駅前で降りて、歩いて日比谷公園に向かう。
有楽門から入ると心字池があり、薄氷が張っていた。
「これは期待できそうだ」と思いながら、「鶴の池」に向かう。
ところがここは陽当りが良く、鶴の噴水は凍っていない。
良く見れば、わずかに羽からツララが下がっているのが見える。

日比谷公園の「有楽門」を入ったところにある「心字池」には薄氷が。
何枚かの写真を撮り、ガッカリしながら公園内を散歩した。
そして変な光景を見た。公園内を散歩している人が、みんなマスクをしている。
公園で空気も良く、人と人の距離は100メートル以上もある。
それなのにマスクだ。どうやら東京の人は「コロナ脳」になってしまっている。
「3密」の密接、密閉、密着のどれにも当て嵌まらないのに変だ。

公園を出て、皇居に向かった。
皇居前広場では体操をする人、散歩をする人、皇居一周ジョギングをする人などがいるが、観光客はいない。
警官が私の行く手を阻んだ。
すると右手から黒塗りの車の車列が向かって来て、二重橋を渡って行った。
もしかして菅総理大臣の一行が、天皇陛下に祝賀を伝えに行くのではないだろうか?

「皇居二重橋」(静かな元旦だった)
皇居から東京駅に出て、都バスで銀座4丁目で降りた。
そこから歩いて築地場外市場を通り抜け、波除神社に初詣に行った。
昨年の内に家族でお参りを済ませているので、今回は遠くからお参りした。
お参りを済ませて、また歩いて築地大橋を渡り家に戻った。
万歩計は9206歩を示していた。家を出てから帰るまでに、私から半径2メートル以内に入った人は5人もいなかった。

皇居二重橋に向かう黒塗りの車列。
(おまけの話)
家に入る前に3階のポストに行って、年賀状を取り出して来た。
私は年賀状を出さない主義なので、年々、その数が減って来ている。
枚数を数えたら、企業の宣伝以外の年賀状はたったの9枚だった。
差出人にはすぐに写真付きで、年賀メールと近況を書いて返信しておいた。
またベトナムからは年賀メールが2通、年賀の電話が2件あったのも嬉しかった。

銀座4丁目交差点から新橋方面を見る。(人も車もほとんどいない)
その中の1通で衝撃を受けた。その1枚は私の現役の時の部下からのもので、彼は毎年、年賀状を送ってくれる。そこに書かれていたのは、「Iさん、Kさん、Sさんが昨年に鬼籍に入った」という知らせだった。
この3人は現役の時には仕事で私と密な関係で、私の引退と同時に縁が切れていたので全くその後を知らなかった。でもその知らせを受けて、私の気持ちは一気に現役時代に戻ってしまった。

築地場外市場の「すしざんまい本店」では、大きなマグロが飾ってあった。
特に私より5歳以上も若く、また彼が独立する時には私の協力が無ければ出来なかったので、突然の知らせでビックリした。
年賀状をくれたXさんは現在は会社社長で、「今年は古稀です。あと5年は頑張ります」と書いてあった。
私は彼にはメールではなく、手紙で知らせのお礼と、現役時代のお礼を書いて送ったのである。自分では出さないのに、もらうと嬉しいのが年賀状である。

「波除神社」は初詣の人も少なかった。
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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影の主役を選んだ人 『dj_hatass=畑吉晃』にプロ魂を見た
12月28日はディスクジョッキー(DJ)の日 皆様、12月28日は「ディスクジョッキー(DJ)の日」だということをご存知でしょうか? ラジオでのDJ活動の第一人者であり、ラジオ人気長寿番組「オールナイトニッポン」の最初のパーソナリティである糸居五郎さんの命日にちなみ、日本では12月28日は「ディスクジョッキーの日」として制定されています。 日本でDJという言葉がメジャーになったのは、ラジオでMC+曲をかけるというスタイルからだと言われています。 ということで、今回の主人公はDJ歴30年、MC無しの音だけでフロアを盛り上げてきた『dj_hatass』こと畑吉晃さんです。 畑さんは1969年生まれの53歳。 DJの世界との出会いは20歳くらいの頃だそうです。 年代的にはちょうどディスコブーム後半の頃になります。 黒服の人に誘われてこの世界に 畑さんの将来を決定づける出会いでした。 その中には、今でも一緒に活動をしている先輩DJの中居さんや、室蘭唯一のクラブ『Red Hill』の竹内さんもいました。 そしてもう一つ、衝撃的な出会いとなった音楽が “ハウスミュージック”と"テクノミュージック"。 それは、これまでに感じたことのないほどの興奮と感動を与えてくれたと言います。 ところで〜 そもそもDJって?と調べてみました。 DJの歴史 第二次世界大戦中から脈々と水面下で培われていた「曲をかけて踊る」という文化。 1960年、ニューヨークにLe ClubというナイトクラブがオープンしたところからDJ文化の原型が誕生していきました。 ただその頃は、曲を繋げるのではなく、1曲が終わったら次の曲をかけるというスタイルでした。 そして1969年、アメリカのニューヨークで、2台のレコードプレーヤーを使って途切れることなく曲を流すというスタイルが生み出されます。 そして1970年代、世間ではディスコが大流行しました。 また、1980年代後半から1990年台にかけてアメリカやヨーロッパなどでレコードプレイヤーを使って音楽を提供するディスコやダンスホール(以後クラブ)が人気となりました。 その空間で選曲し、切れ目のない音楽でフロアを盛り上げていたプレイヤーがいつしかDJと呼ばれる様になります。 そしてDJの演奏スキルやテクニックの向上とともに、DJが使用するレコードプレイヤー、ミキサーなどが進化していくのでした。 現在のDJスタイルとしては、アナログDJ・CDJ・PCDJなどが一般的だそうです。 ・ アナログ(レコード)DJとは、昔からの定番スタイルで、曲の繋ぎを考えながらレコード選びをし、音の厚みで勝負するスタイルです。 ・ CDJとは、多くを持ち運べないというレコードのデメリットをCDの普及により解消し、PCやCDレコーダー、メモリースティックなどの駆使によって音源の呼び出しも容易にプレイが出来るスタイルです。 ・ PCDJとは、より効率的であることを優先した先に生まれた技術です。持ち運びの出来る楽曲量の多さと、音源入手の手軽さにより、現在は主流のスタイルになっています。 「持ち運び」の利便性がKeyで進化していったスタイルの違いですが、結果、利便性だけではないメリットとデメリットが生じたようです。 音楽のジャンルによっては、アナログに勝るスタイルはなかったり、PCDJをやるにはPCや機材の知識が必要になったりとそれぞれに高度な知識とスキルを必要とされます。 怠らぬキャリア積み上げ このような歴史を持つDJですが、畑さんはこれらどのタイプでも対応できる実力をお持ちです。 素敵! フロアに出ていなくても勉強を続けるとは、まさにプロ魂です。 この時は室蘭のチーム対苫小牧のチーム。 お隣にいらっしゃるのが先輩DJの中居さんです。 チームの入場曲や得点が決まった時の『ゴールホーン』も畑さんたち、DJチームのオリジナルMIXだそうです。 その甲斐もあり、この日は見事に勝利! 「ところで、他にはどんなところでDJをされているのですか?」 楽しそうに話す畑さんでしたが、少し神妙な面持ちにも…。 ブログの最後に畑さんのSNSアカウントを掲載しています。 「DJに関するご相談はそちらからどうぞお気軽に!」とのことです♪ 意外な本業とは さてところで。 実は畑さんの本業は、ジオパーク推進協議会の職員さんです。 そして、筆者もとてもお世話になっている『洞爺湖有珠火山マイスター制度』の担当者でもあります。 とても優しく、みんなに頼られる兄貴的存在です。 そして事務所にいらっしゃる時の畑さんはDJとは全く別のお顔です。 なんと! それは意外! 畑さんが言うには、火山マイスターの皆さんが一生懸命に勉強したり、講師活動をしたりしている姿にとても感動して触発されたのだそう。 そうか…。 共通項はそこなんだ! 正直に書けば、取材をさせていただく前、事務所にいらっしゃる畑さんとDJをされている畑さんは全くの別人だと思っていました。 どちらかが裏で、どちららかが表。 でも、裏も表もどちらも素敵だなあと。 ところが違いました。 畑さんはどちらも表でした。 舞台に立つ人たちを裏方で盛り上げることに喜びを感じる人だったのです。 なるほど…。 確かに思い当たります。 畑さんは本当に話すのが苦手でいらっしゃいます。 何かを発表される時、「原稿なしでは話せません」と恥ずかしそうにします。 そして超棒読み…^^; ところが、一旦機材の前に立つと活き活きとした表情で、機材を自由自在に操り、音で意気揚々と皆様に語りかけ、フロアを盛り上げていきます。 ジオパーク推進協議会の職員さんのときとのギャップがスゴい! 人生の終わりまで『影の主役』を 「ところで、畑さんにとってのDJの魅力ってどんなところでしょうか?」 『影の主役』に喜びを感じるところ。 言い換えると、決して出しゃばらず表現して、場を支え盛り上げるところ。 とても畑さんらしいなあと思います。 「それでは最後に。” dj_hatass “として、将来どうありたいと考えていますか?」 ” dj_hatass =畑 吉晃 ”は、人生の終わりまで『影の主役』を望み、大好きな曲で送って欲しいと願う、DJのプロでした。 ディスコ全盛期を生きながら一度もディスコのドアを開いたことがない筆者ですが、人生初のディスコは” dj_hatass “に踊らせていただこうと思います。 [Instagram] https://instagram.com/dj_hatass?igshid=YmMyMTA2M2Y= [Facebook] https://www.facebook.com/profile.php?id=100005068364809
Rietty
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