
心の伊達市民 第一号
夕方のTVのニュースで、「歌舞伎町タワーがオープン」と報じていた。
新宿までは時々、行くが、歌舞伎町は久しく足を踏み入れていない。
久し振りに歌舞伎町に行ってみることにした。その場所は元の「新宿ミラノ座」のあった場所である。立派な48階建て、225メートルのタワーである。
「ミラノ座」は学生時代に映画を見るために、よく通った懐かしい場所だ。
現在の建物は1階から5階までが、レストラン&エンターテイメント、6階から8階までがミラノ座劇場、9階から10階がプレミアム映画館、10階から38階までと、39階から47階は別々のホテルが入居している。
普通はある賃貸のオフィスフロアーの無い、珍しいタワーである。
歌舞伎町は「危険な場所」というのが、世間の通り相場である。
そこで行く前に、いつものように歌舞伎町の歴史を調べてみた。
『現在の新宿の始まりは、1697年頃、日本全国をつなぐ甲州街道を行き交う人達に向けて開いた宿場町として、また宿場町に付きものの行楽地として発展して来た。
その後、第二次世界大戦の空襲で、新宿東部一帯は焼け野原となった』
『終戦後、当時の町会長・鈴木喜兵衛らの戦後復興事業案は、本エリアに「歌舞伎座」の誘致を中核とする芸能施設を集め、新東京の家族的な健全センターの建設等を作り上げるといったもので、都市計画に奔走した石川栄曜の提案で、新しい街は「歌舞伎町」と名付けられた。その後、規制や預金封鎖で歌舞伎座誘致は断念となったが、五島慶太の助言を受けて東急歌舞伎町タワーの原型を作り上げるに至った』。
相変わらず怪しげな歌舞伎町の裏通りを抜けて、以前のコマ劇場前に出ると、正面に東急歌舞伎町タワーがそびえ立っているのが目に入る。
みんなの流れに付いて行き、1階にあるエスカレーターに乗って2階に上がる。
そこはレストラン街で、大きな広い屋台村となっている。
レトロな感じを目いっぱい出して、お客を誘っている。
エレベーターで3階に行ってみた。そこナムコの経営の巨大なゲームセンターだった。
4階にも行ってみたら、なんだかよく分からないところだった。
このタワーの中は健全で安心かもしれないが、外に出れば以前の歌舞伎町である。
若者向けのタワーのように思え、私のような高齢者は「来ないだろうなー」と思った。
ここで一番驚いたのは、9階と10階のプレミアム映画館で、なんとTOHOシネマと同じ映画なのに入場料が4500円だった。「CLASS S席」は驚きの6500円である。
歌舞伎町で思い出すのは、Kさんである。
彼は中学・高校時代の同級生だが、あの怪しげな歌舞伎町で2軒ものクラブを経営していた。既に亡くなってしまったが、同級生が新宿で集まる時は、必ず2次会は彼の店に行った。
一番、印象に残っているのは、彼の実家がクリーニング店だったので、学生のくせに彼だけは常にアイロンの掛かったパリッとしたシャツを着ていたことだ。歌舞伎町に行って、青春時代を思い出した。
(おまけの話)
新聞の文化欄に「李 御寧 一周忌追慕特別展示会」という催しが出ていた。
不勉強ながら私は「李 御寧」という名前を初めて知った。
彼は日本に非常に詳しく、何冊もの本を書いているようだ。
本の一冊に「縮み志向の日本人」というのがあるようで、そのタイトルが私を惹き付けた。そこで歌舞伎町タワーに行った帰り道に、四谷にある「韓国文化院」に立ち寄った。
韓国にはいままでに10回は行っている。仕事の時と、個人旅行である。
私が仕事で行っていた時は、もう50年も前のことで、当時の韓国は厳戒令下の社会だった。外食する時も、レストランでは「麦飯」で、慣れない私は参った覚えがある。
堪えられなくなると、寿司屋へ行った。寿司は麦飯でなかったからだ。
当時の韓国は反日ではなく、割合に友好的だった。
20年少し前に日本で韓国ドラマがブームになった。
その時に放送されたのが「チャングムの誓い」で、家族の希望を入れてソウルを訪れてテーマパークに行ったことがあった。地下鉄とバスに乗り継いで、かなり遠くまで見に行った覚えがある。
あの頃の韓国は貧しかった。
いまでは日本を凌ぐほどに豊かになり、自信を持ったのか反日になった。
ところで「韓国文化院」では本とパネルだけの展示なので、長くはいられなかった。
図書館に「縮み志向の日本人」は蔵書に無いので、他区からの取り寄せを依頼してある。
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
詳しくはこちらハッシュタグ
月別アーカイブ
「むしゃなび」はこちらの皆様に支援して頂いています
人気の記事
-
04/18(木) 写真で見る東京(32)・・・浜離宮の御衣黄
-
04/19(土) 最近、気に入らないこと
-
04/24(木) 写真で見る東京(94)・・・フラワーカーペット
-
04/18(金) 写真で見る東京(92)・・・なごり桜
-
04/29(土) 信任状捧呈式の馬車列撮影

イベント
「観光・体験」カテゴリーのおすすめ記事
-
2025/02/05(水) 32年間の論争に決着か?!
ホテルマンの幸せ
0
-
心の伊達市民 第一号
0
2
-
2025/02/20(木) 私の方が『KEY TO LIT』
ホテルマンの幸せ
0
-
心の伊達市民 第一号
0
2
-
2025/03/10(月) 写真で見る東京(80)・・・晴海ふ頭の河津桜
心の伊達市民 第一号
0
2
観光・体験に関する
特集記事
-
03/01(金) 確固たる想いを洞爺湖で実現させたい! 〜『湖の膳舎 なかむら』 和食職人 中村 悠佑氏〜
2023.4.25 OPEN以来、ずっと気になっていた方をようやく取材することができました。 今回の主人公は『湖の膳舎 なかむら』代表 中村 悠佑さん 千葉県出身、東京都育ち、1児のパパです。 “ My洞爺湖! “ そんな勘違いをしてしまいそうになる景色。 広い窓いっぱいに洞爺湖が見渡せる贅沢空間にその店舗は存在しています。 和食職人と言うと、中学校を出て直ぐ料理の修行をするようなイメージがありましたが、中村さんは和食職人としては珍しい大卒者です。 「本当は、高校を出たら直ぐに飲食業につきたいと思っていました。早くこの世界に入りたかったのです。けれども、親の説得を受けて大学へ行くことになりました」。 とにかく飲食業が好きだった中村さんは、高校一年生の時からファミリーレストランやイタリアンレストランで、大学に入学してからは居酒屋でアルバイトをする日々でした。 「大学では文学部に所属していました。 実はあるリース会社に就職も内定していました。 でも、居酒屋でアルバイトしていた時に感じた、お客様が料理とお酒を楽しんでいる雰囲気がとても好きだったという気持ちを捨てきれず、どうしても飲食業への道が諦められず、その会社を断ってしまいました」。 そんな中村さんが大学卒業後に選んだのは調理師専門学校への入学でした。 「最初はフレンチ志望でした。 かっこ良く見えたんでしょうね。 授業では、和・洋・中をそれぞれ学ぶのですが、授業の中で試食をした時に体にも舌にも自分は和食に向いていると実感しました」。 専門学校卒業後、中村さんは赤坂や新宿の料亭で働き始めました。 修行時代の始まりです。 「就職して初めて飲食業の本当の厳しさを知りました。 労働環境は劣悪でしたよ笑 勤務時間は07:00~25:00 休みの日も糠床をかき混ぜるために出勤していました。 それでもそれほど辛いとは感じなかった。 修行時代を6年ほど過ごし、独立を決めました」。 29歳の時に独立を決めた中村さんは、東京中野の駅前に店舗を構えました。 30席もある店だったそうです。 “ この人みたいになりたい! と憧れる人はいない “ ときっぱり言い切った中村さん。 どこかで聞いたことがある…と思ったら、大谷選手が言った言葉でした。 「え?彼もそんなことを言っていましたか」。と、ご存知なかったご様子。 「修行時代、味付けはさせてもらえませんでした。味付けは最高の位置にいる人の仕事ですからね。 だから、味覚のトレーニングと料理の独自の研究は常に怠りませんでした。 自分の味付けは自分の店を始めてから学びました」。 なるほど。 以前、ある方から、洗い物をする時に鍋についたものやお客様の皿を舐めて味を覚えたという話を聞いたことがありましたが、やはり料理人の世界は厳しいのですね。 「妻は自身で店を持つことを夢に持ち割烹料理店で修行しており、2人で店をスタートしました。東京のお店は住宅街のひっそりとした場所で始めましたが、そこの住宅街にお住まいのお客様はもちろん、近隣の会社様の接待の需要も有り様々なお客様にお越し頂いておりました。その店は、12年間営んでいましたが、北海道行きを決め2023年1月31日に閉じました」。 きっと惜しまれつつ閉じられたのだと思います。 それが証拠に、その時のお客様が東京から洞爺湖までお食事にいらっしゃると言います。 「中村が洞爺湖に店を出したらしいと聞きつけた中野の割烹料理屋時代のお客様がわざわざ来てくださいました。 本当にありがたいです」。 「ところで、何故、洞爺湖を選ばれたのですか?」 「妻の美佳が北斗市出身なのです。いま娘は3歳なのですが、子育ては自然豊かな北海道で育てたいと予々考えていました。そういう視点で北海道を旅した時に、洞爺湖がとても気に入りました。移住するならここが良いなと。でも、果たしてここで商売が成り立つのか? とても不安でした」。 そんな心配を余所に、オープン直後から多くの客様が足を運ぶ店となりました。 「雑誌の「Poroco」や「Ho」に掲載されたことは大きな宣伝になり、とても感謝しています。 札幌圏の方も来てくださるようになりました。ですのでお陰様で夏は順調でした。でも、冬が心配だった。ところが、今度はインバウンドのお客様もたくさん来てくださるようになりました。 シンガポール・タイ・台湾の方が多いです。 海外のお客様は積極的にGoogleにコメントを入れてくださいますので、それをご覧になったお客様がまた来てくださいます」。 予約専門のお店のため、来店者数に合わせて仕込みができるのも強みのようです(席が空いていれば飛び込みも受け付けてくださるそう)。 「どのお料理も素材の味が最大限に生かされていますが、取引先の生産者さんはどのように選ばれているのですか?」 「洞爺湖に引っ越してきたのは2023年の2月で、店のオープンは4月でしたので、野菜は根菜くらいしか手に入らない時期でした。お米は移住前から財田米を食べ比べ、宮内農園さんのお米を食べて「この美味しいお米なら洞爺でお店が出来る」と確信を持てました。宮内農園の佐々木ご夫妻には他の農家さんをご紹介頂いたり、自分達で道の駅で買って美味しかった農家さんにアポを取ってみたりとオープン前は奔走の毎日でした。出来るだけ地元の食材を利用し、地元の方にこんな美味しい食材が地元に有ったんだ!と再発見していただけるようなお店を作っていきたいです」。 特別なものを使うのではなく、地元の方がよく食べているものを使いたいという考え方は素敵だと思いました。 「地元食材を使いながらも、今まで無かった店、今まであまり食べる機会が無かった料理を、職人技で提供する店になりたいと考えています。 とは言え、いまは未だ試行錯誤の段階です。 地元の方に足を運んでいただくためには地域性も大切にしなければいけませんから」。 「ところで、お二人にお尋ねします。移住して良かったなあ〜と思う瞬間てどんな時ですか?」 「最高の食材がすぐ身近にあることが幸せです。 娘がのびのびと成長していると感じる時もまた移住して良かったと感じます」。と悠佑さん。 「洞爺湖を眺めながら大好きな温泉に入っている時です!笑」と美佳さん。 明るい美佳さんは早くも常連さんの人気者です。 「最後に目指しているスタイルがあればお聞かせいただけますか?」 「洞爺湖ならではの和食の店を確立したいです。この素晴らしい借景の中で、洞爺湖でしか食べられないものを提供したい。そのためにも、もっともっと洞爺湖のことを知りたいですし、洞爺湖の食材のことを研究したいです」。 そう力強く語った中村さんの元に、保育園から帰ってきた娘さんが「ありがとうございます!」と言いながらニコニコと現れました♡ ―湖の膳舎 なかむら 情報― 電話 080-9269-2578 住所 北海道虻田郡洞爺湖町洞爺湖温泉186-85 Instagram https://www.instagram.com/nakamura0321?igsh=MWR1bm9ieTBya28yNw==
Rietty
0
-
-
Shinji