心の伊達市民 第一号
都バスで「東京スカイツリー」に行く時は「亀戸駅」行きのバスに乗る。両国を過ぎたあたりの左側に「横網町公園」という名の公園が見える。少し前まで、私はここは「横綱町公園」だと思い込んでいた。それがとんでもない間違いだと気が付いたのは、2年前くらいのことだった。
「両国」と聞けば、誰でも「相撲」を思い浮かべる。
そうすると「横綱町公園」となるはずだ。ところがこの公園に行った時に見た入口の名札には「横網町公園」と書いてあった。「横綱・よこづな」と「横網・よこあみ」ではほぼ同じ漢字で、近所の人以外は誰でも間違える。外国人には日本語は難し過ぎる。
「横網町公園」に行った理由は、今年が関東大震災から100年目の年だからだ。100年前は私はまだ生まれていないが、歴史に残る大地震の上に、東京では多くの人が亡くなった。
横網町公園を入ったところに、洒落たデザインの目立つ花壇がある。
花壇の中には入口らしきものが見え、その中には第二次世界大戦の時の東京空襲で犠牲となった方々の名簿が納められているそうだ。
都立横網町公園の歴史を知ると、かなり悲惨なことが起きたと分る。
この場所は昔は陸軍被服廠であったが、1922年に東京市が跡地を買収し公園の造成を進めていた。その最中の1923年9月1日に関東大震災が起きたのである。その時間が丁度、昼時だったことと、台風の余波で強風が吹いていた。
各所で起きた火災は強風に煽られて、やがて被服廠にも迫った。家財道具などを荷車に積んでここへ避難した人達を、巨大な炎の竜巻が一気に人々を飲み込んだ。その結果、この場所だけで3万8000人が焼け死んだのである。
公園が完成した時の名は「大正震災記念公園」だったが、1930年に慰霊堂が完成した時に「横網町公園」となった。慰霊堂は無宗教であるが、賽銭箱が置いてあるのが、なにか可笑しかった。慰霊堂の中に入り、祭壇でお参りをした。
関東大震災と、近年の大地震のデータを調べてみた。
「阪神・淡路大震災」は1995年1月17日で、マグニチュード(M 7.3)
「東日本大震災」は2011年3月11日で、マグニチュード(M 9.0)
「関東大震災」は1923年9月1日で、マグニチュード(M 7.9)
公園の横に「復興記念館」があった。
入口でパンフレットをもらおうと思ったら、係のオバサンが言った。
『もうしわけありません。いま品切れになっていて、印刷を注文しているところです』
同じ場所に英文のパンフレットがあったので、それをもらった。
そして英文のタイトルが「Great Kanto Earthquake Memorial Museum」だと知った。これでは日本語と違うと思った。英文を訳すと「関東大震災博物館」になる。
復興記念館はかなり広く、震災時の貴重な写真や遺品が陳列されている。
その中に竹久夢二の震災時の絵と文が展示してあった。
資料によると『渋谷区宇田川町に住んでいた竹久夢二は、友人の有馬生馬と震災後の東京の町をスケッチして歩き、都新聞に「東京災難画信」として連載しました』
その全ページが壁に展示してあったので、私は興味深く読んでみた。
『災害の翌日に見た被服廠は実に死体の海だった。戦場で死んだ人達は、おそらくこれ程悲惨ではあるまい。ついさっきまで生活していた者が、何の為めでもなく、死ぬいわれもなく死んでゆくのだ。死にたくない、どうかして生きたいと、もがき苦しんだ形がそのままに、苦患の波がひしめき重なっているのだ』
『相撲取りらしい男は土俵の上で戦っているように眼に見えぬ敵にあらん限り力を出した形で死んでいる。子を抱きしめて死んだ女は哀れであるがまだ美しい。血気の男と戦った形はとても惨しくて、どうしても描く気になれなかった』
(おまけの話)
復興記念館を出た時は、とても気持ちが落ち込んでいた。
少し気晴らしをしてから家に戻ろうと考えて、近くの「旧安田庭園」に行った。旧安田庭園は墨田区立で、入園料は無料である。
ここも浜離宮恩賜庭園と同じく、潮入りの回遊式庭園である。
資料によると、この庭園の潮入は、驚くことに現在は「人工的に水位の干満が再現されている」そうだ。
この庭園もとても美しいが、浜離宮恩賜庭園と比べると、かなり規模は小さい。池には鯉が泳ぎ、鴨が美しい波紋を残して進んで行く。
都会の中の静寂である。こんなところにも、外国人観光客がかなり来ていた。
陽当りの良いベンチには、人々が座りお弁当を食べている。
介護人が老人を車椅子に乗せて来ている。ここは平和である。
池の中にある中島では、岩場に亀が休んでいるのが見える。
水のある風景は、なぜか心を和ませる。
西洋式の公園と違い、日本庭園は「松」、「石」、「水」があるせいか、「静寂」、「落ち着き」、「平和」、「物思い」などを連想させる。
復興記念館での心の痛みを、この庭園で癒してから家に戻った。
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
詳しくはこちらハッシュタグ
月別アーカイブ
「むしゃなび」はこちらの皆様に支援して頂いています
人気の記事
-
12/06(金) 写真で見る東京(68)・・・メタセコイアを見に
-
06/26(月) 皇居二の丸庭園の「ヒレナガニシキゴイ」
-
12/05(木) 写真で見る東京(67)・・・ヘコプター訓練
イベント
-
12/14(土) 20:00~23:55
年忘れディスコパーティー(PPSディスコパーティーVOL.3)
- 開催場所
-
室蘭市中島町5番街ビル2階(PPS)
「観光・体験」カテゴリーのおすすめ記事
-
2024/10/25(金) ウインザーホテル洞爺で想うコト
ホテルマンの幸せ
0 -
2024/11/15(金) 親友と出雲大社と(2)
kayaker
0 -
2024/09/24(火) お孫ちゃんの1歳の誕生日
-
2024/07/27(土) 8/10〜11赤いはちみつの丘フェスタに出展します
愛と感謝の日々
0 -
2024/08/16(金) 徒然なるままに(132)
観光・体験に関する
特集記事
-
03/01(金) 確固たる想いを洞爺湖で実現させたい! 〜『湖の膳舎 なかむら』 和食職人 中村 悠佑氏〜
2023.4.25 OPEN以来、ずっと気になっていた方をようやく取材することができました。 今回の主人公は『湖の膳舎 なかむら』代表 中村 悠佑さん 千葉県出身、東京都育ち、1児のパパです。 “ My洞爺湖! “ そんな勘違いをしてしまいそうになる景色。 広い窓いっぱいに洞爺湖が見渡せる贅沢空間にその店舗は存在しています。 和食職人と言うと、中学校を出て直ぐ料理の修行をするようなイメージがありましたが、中村さんは和食職人としては珍しい大卒者です。 「本当は、高校を出たら直ぐに飲食業につきたいと思っていました。早くこの世界に入りたかったのです。けれども、親の説得を受けて大学へ行くことになりました」。 とにかく飲食業が好きだった中村さんは、高校一年生の時からファミリーレストランやイタリアンレストランで、大学に入学してからは居酒屋でアルバイトをする日々でした。 「大学では文学部に所属していました。 実はあるリース会社に就職も内定していました。 でも、居酒屋でアルバイトしていた時に感じた、お客様が料理とお酒を楽しんでいる雰囲気がとても好きだったという気持ちを捨てきれず、どうしても飲食業への道が諦められず、その会社を断ってしまいました」。 そんな中村さんが大学卒業後に選んだのは調理師専門学校への入学でした。 「最初はフレンチ志望でした。 かっこ良く見えたんでしょうね。 授業では、和・洋・中をそれぞれ学ぶのですが、授業の中で試食をした時に体にも舌にも自分は和食に向いていると実感しました」。 専門学校卒業後、中村さんは赤坂や新宿の料亭で働き始めました。 修行時代の始まりです。 「就職して初めて飲食業の本当の厳しさを知りました。 労働環境は劣悪でしたよ笑 勤務時間は07:00~25:00 休みの日も糠床をかき混ぜるために出勤していました。 それでもそれほど辛いとは感じなかった。 修行時代を6年ほど過ごし、独立を決めました」。 29歳の時に独立を決めた中村さんは、東京中野の駅前に店舗を構えました。 30席もある店だったそうです。 “ この人みたいになりたい! と憧れる人はいない “ ときっぱり言い切った中村さん。 どこかで聞いたことがある…と思ったら、大谷選手が言った言葉でした。 「え?彼もそんなことを言っていましたか」。と、ご存知なかったご様子。 「修行時代、味付けはさせてもらえませんでした。味付けは最高の位置にいる人の仕事ですからね。 だから、味覚のトレーニングと料理の独自の研究は常に怠りませんでした。 自分の味付けは自分の店を始めてから学びました」。 なるほど。 以前、ある方から、洗い物をする時に鍋についたものやお客様の皿を舐めて味を覚えたという話を聞いたことがありましたが、やはり料理人の世界は厳しいのですね。 「妻は自身で店を持つことを夢に持ち割烹料理店で修行しており、2人で店をスタートしました。東京のお店は住宅街のひっそりとした場所で始めましたが、そこの住宅街にお住まいのお客様はもちろん、近隣の会社様の接待の需要も有り様々なお客様にお越し頂いておりました。その店は、12年間営んでいましたが、北海道行きを決め2023年1月31日に閉じました」。 きっと惜しまれつつ閉じられたのだと思います。 それが証拠に、その時のお客様が東京から洞爺湖までお食事にいらっしゃると言います。 「中村が洞爺湖に店を出したらしいと聞きつけた中野の割烹料理屋時代のお客様がわざわざ来てくださいました。 本当にありがたいです」。 「ところで、何故、洞爺湖を選ばれたのですか?」 「妻の美佳が北斗市出身なのです。いま娘は3歳なのですが、子育ては自然豊かな北海道で育てたいと予々考えていました。そういう視点で北海道を旅した時に、洞爺湖がとても気に入りました。移住するならここが良いなと。でも、果たしてここで商売が成り立つのか? とても不安でした」。 そんな心配を余所に、オープン直後から多くの客様が足を運ぶ店となりました。 「雑誌の「Poroco」や「Ho」に掲載されたことは大きな宣伝になり、とても感謝しています。 札幌圏の方も来てくださるようになりました。ですのでお陰様で夏は順調でした。でも、冬が心配だった。ところが、今度はインバウンドのお客様もたくさん来てくださるようになりました。 シンガポール・タイ・台湾の方が多いです。 海外のお客様は積極的にGoogleにコメントを入れてくださいますので、それをご覧になったお客様がまた来てくださいます」。 予約専門のお店のため、来店者数に合わせて仕込みができるのも強みのようです(席が空いていれば飛び込みも受け付けてくださるそう)。 「どのお料理も素材の味が最大限に生かされていますが、取引先の生産者さんはどのように選ばれているのですか?」 「洞爺湖に引っ越してきたのは2023年の2月で、店のオープンは4月でしたので、野菜は根菜くらいしか手に入らない時期でした。お米は移住前から財田米を食べ比べ、宮内農園さんのお米を食べて「この美味しいお米なら洞爺でお店が出来る」と確信を持てました。宮内農園の佐々木ご夫妻には他の農家さんをご紹介頂いたり、自分達で道の駅で買って美味しかった農家さんにアポを取ってみたりとオープン前は奔走の毎日でした。出来るだけ地元の食材を利用し、地元の方にこんな美味しい食材が地元に有ったんだ!と再発見していただけるようなお店を作っていきたいです」。 特別なものを使うのではなく、地元の方がよく食べているものを使いたいという考え方は素敵だと思いました。 「地元食材を使いながらも、今まで無かった店、今まであまり食べる機会が無かった料理を、職人技で提供する店になりたいと考えています。 とは言え、いまは未だ試行錯誤の段階です。 地元の方に足を運んでいただくためには地域性も大切にしなければいけませんから」。 「ところで、お二人にお尋ねします。移住して良かったなあ〜と思う瞬間てどんな時ですか?」 「最高の食材がすぐ身近にあることが幸せです。 娘がのびのびと成長していると感じる時もまた移住して良かったと感じます」。と悠佑さん。 「洞爺湖を眺めながら大好きな温泉に入っている時です!笑」と美佳さん。 明るい美佳さんは早くも常連さんの人気者です。 「最後に目指しているスタイルがあればお聞かせいただけますか?」 「洞爺湖ならではの和食の店を確立したいです。この素晴らしい借景の中で、洞爺湖でしか食べられないものを提供したい。そのためにも、もっともっと洞爺湖のことを知りたいですし、洞爺湖の食材のことを研究したいです」。 そう力強く語った中村さんの元に、保育園から帰ってきた娘さんが「ありがとうございます!」と言いながらニコニコと現れました♡ ―湖の膳舎 なかむら 情報― 電話 080-9269-2578 住所 北海道虻田郡洞爺湖町洞爺湖温泉186-85 Instagram https://www.instagram.com/nakamura0321?igsh=MWR1bm9ieTBya28yNw==
Rietty
0
Shinji