心の伊達市民 第一号
「銀座」と言えば日本を代表する街で、「高級」というイメージがある。
小金井に住んでいたころは「銀座に行く」となると、服装も一番良いものを着て行った。それが既に都心生活も10年を越すと慣れて来て、普段着で行けるようになった。そこで今回は銀座の高級ブランド店を見て廻った。
でも「見て廻った」と言っても、中には入らないし、入る必要もない私である。
1店目は「HERMES」であるが、ここには毎月1回は無料映画を見に行っているのでお馴染みだが、店内に入ったことは無い。
「HERMES」の並びに「COACH」がある。
このブランドは珍しく、1941年創業のアメリカの会社である。
皮革工房であった会社なので、ハンドバッグや財布が主な商品である。
「COACH」は乗り物で馬車の代名詞でもあるからマークは馬車だが、最近になり改装した店舗は派手で「自動車」になっていた。
銀座通りに面した「Cartier」は、しばらくここを離れていた。
ビルの建て替えの為だったが、最近になりビルが完成して戻って来た。
「Cartier」の名前を初めて知ったのは、もう40年も前になるなー。
私がヨーロッパ旅行に行くと知った妹の亭主が、『カルチェでライターを買って来てくれ』と言って、お金を渡されたことがあった。帰りの税関で見付からないように、トランクの奥にしまい込んで通関したな―。
「TIFFANY」にも、私には思い出がある。60年前の22歳の時に、マンハッタンの店に入ったことがある。でも値段が高過ぎて、見るだけで出て来た覚えがある。
いま思い出しても、「ドアマンが、私のようなアジアの若造をよく入れてくれたなー」と思う。同じころに公開されたオードリー・ヘップバーン主演の映画、「ティファニーで朝食を」も良かったなー。
銀座通りはヨーロッパのブランド店で占領されている。
ほとんどの店は午前11時に開店となるが、開店前に大勢の人達が並んで待っている。「金を払うのに並ぶ」という心理が、私には分からない。
私の見たところでは、ほとんどがアジア人でしかも中国系である。
円安で、日本の方が自国より安いのだろうか?
テレビニュースを見ていたら、韓国人のアイドルが銀座のブランド店に来ると知った日本女性が歩道を埋め尽くしていた。私には理解出来ないことだらけである。
銀座通りの「VERSACE」の前を通ったら、その時のアイドルらしき男の大きな写真がショーウィンドーに飾ってあった。ホストバーに入れ込む女性がいるようだが、韓国のアイドルに入れ込むのも似ているのかなー。
冬になると日が暮れるのが早くなり、「BVLGARI」はビルに巻き付いている巨大な蛇に電気を入れる。夜になると、蛇が光るのである。
なぜ「蛇なんだろう?」と思い調べてみたら、『蛇が古代ギリシャや古代ローマにおいて、「永遠」の意味を持つ生物と考えられていたから』らしいと分った。
「LOUIS VITTON」は銀座6丁目の並木通りに、奇抜なデザインのビルの完成と同時に移転した。少し分かり難い場所なので、果たしてそれが成功したかどうか?
(おまけの話)
かなり前だが、銀座通りから「英国屋」が撤退して裏通りに移転した。
後に入ったのが、中古ブランド品売買の「KOMEHYO」(コメ兵)だった。
七宝焼き店の「安藤七宝店」も広い店から、三越の並びの小さな店になった。
そこの後に入ったのは、やはり欧米系のブランドショップだった。
欧米系のブランドに押されて、日本のブランドはどうなったのか?
洋菓子の「不二家」は頑張っているが、将棋の叡王戦のスポンサーになっていたことが幸いして、藤井聡汰の「おやつ」に助けられているが、日本国内だけのブランドだ。
「ユニクロ」も銀座通りに大きな店を構えているが、残念ながら高級ブランドではなく「庶民ブランド」である。近くには系列で更に安い「GU」を出店している。
もはや銀座通りは、欧米系の高級ブランドに席巻されている。
そんな中で日本発祥の、真珠の「MIKIMOTO」は頑張っている。
銀座通りで世界に通用する日本ブランドは、他には見当たらない。
「あんぱん」の木村屋もあるが、残念ながら世界ブランドではない。
都バスを「銀座4丁目」で降りたら、地下に入る場所の手すりに寄り掛かっている男の背中が見えた。そして驚いた。彼が着ていたジャンパーの背中には「TIFFANY」と「NIKE」の2つのブランド・マークが付いていた。前に廻って顔を見たら、中国人観光客らしかった。これは明らかにニセモノである。
アジア人は欧米のブランドが好きである。特に中国人にそう感じる。
それはブランド店の開店の1時間前くらいから、大勢で行列している姿を見るからだ。彼等は自国の商人を信用せず、「日本で買えば、ニセモノではない」と考えているからだ。
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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Rietty
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03/01(金) 確固たる想いを洞爺湖で実現させたい! 〜『湖の膳舎 なかむら』 和食職人 中村 悠佑氏〜
2023.4.25 OPEN以来、ずっと気になっていた方をようやく取材することができました。 今回の主人公は『湖の膳舎 なかむら』代表 中村 悠佑さん 千葉県出身、東京都育ち、1児のパパです。 “ My洞爺湖! “ そんな勘違いをしてしまいそうになる景色。 広い窓いっぱいに洞爺湖が見渡せる贅沢空間にその店舗は存在しています。 和食職人と言うと、中学校を出て直ぐ料理の修行をするようなイメージがありましたが、中村さんは和食職人としては珍しい大卒者です。 「本当は、高校を出たら直ぐに飲食業につきたいと思っていました。早くこの世界に入りたかったのです。けれども、親の説得を受けて大学へ行くことになりました」。 とにかく飲食業が好きだった中村さんは、高校一年生の時からファミリーレストランやイタリアンレストランで、大学に入学してからは居酒屋でアルバイトをする日々でした。 「大学では文学部に所属していました。 実はあるリース会社に就職も内定していました。 でも、居酒屋でアルバイトしていた時に感じた、お客様が料理とお酒を楽しんでいる雰囲気がとても好きだったという気持ちを捨てきれず、どうしても飲食業への道が諦められず、その会社を断ってしまいました」。 そんな中村さんが大学卒業後に選んだのは調理師専門学校への入学でした。 「最初はフレンチ志望でした。 かっこ良く見えたんでしょうね。 授業では、和・洋・中をそれぞれ学ぶのですが、授業の中で試食をした時に体にも舌にも自分は和食に向いていると実感しました」。 専門学校卒業後、中村さんは赤坂や新宿の料亭で働き始めました。 修行時代の始まりです。 「就職して初めて飲食業の本当の厳しさを知りました。 労働環境は劣悪でしたよ笑 勤務時間は07:00~25:00 休みの日も糠床をかき混ぜるために出勤していました。 それでもそれほど辛いとは感じなかった。 修行時代を6年ほど過ごし、独立を決めました」。 29歳の時に独立を決めた中村さんは、東京中野の駅前に店舗を構えました。 30席もある店だったそうです。 “ この人みたいになりたい! と憧れる人はいない “ ときっぱり言い切った中村さん。 どこかで聞いたことがある…と思ったら、大谷選手が言った言葉でした。 「え?彼もそんなことを言っていましたか」。と、ご存知なかったご様子。 「修行時代、味付けはさせてもらえませんでした。味付けは最高の位置にいる人の仕事ですからね。 だから、味覚のトレーニングと料理の独自の研究は常に怠りませんでした。 自分の味付けは自分の店を始めてから学びました」。 なるほど。 以前、ある方から、洗い物をする時に鍋についたものやお客様の皿を舐めて味を覚えたという話を聞いたことがありましたが、やはり料理人の世界は厳しいのですね。 「妻は自身で店を持つことを夢に持ち割烹料理店で修行しており、2人で店をスタートしました。東京のお店は住宅街のひっそりとした場所で始めましたが、そこの住宅街にお住まいのお客様はもちろん、近隣の会社様の接待の需要も有り様々なお客様にお越し頂いておりました。その店は、12年間営んでいましたが、北海道行きを決め2023年1月31日に閉じました」。 きっと惜しまれつつ閉じられたのだと思います。 それが証拠に、その時のお客様が東京から洞爺湖までお食事にいらっしゃると言います。 「中村が洞爺湖に店を出したらしいと聞きつけた中野の割烹料理屋時代のお客様がわざわざ来てくださいました。 本当にありがたいです」。 「ところで、何故、洞爺湖を選ばれたのですか?」 「妻の美佳が北斗市出身なのです。いま娘は3歳なのですが、子育ては自然豊かな北海道で育てたいと予々考えていました。そういう視点で北海道を旅した時に、洞爺湖がとても気に入りました。移住するならここが良いなと。でも、果たしてここで商売が成り立つのか? とても不安でした」。 そんな心配を余所に、オープン直後から多くの客様が足を運ぶ店となりました。 「雑誌の「Poroco」や「Ho」に掲載されたことは大きな宣伝になり、とても感謝しています。 札幌圏の方も来てくださるようになりました。ですのでお陰様で夏は順調でした。でも、冬が心配だった。ところが、今度はインバウンドのお客様もたくさん来てくださるようになりました。 シンガポール・タイ・台湾の方が多いです。 海外のお客様は積極的にGoogleにコメントを入れてくださいますので、それをご覧になったお客様がまた来てくださいます」。 予約専門のお店のため、来店者数に合わせて仕込みができるのも強みのようです(席が空いていれば飛び込みも受け付けてくださるそう)。 「どのお料理も素材の味が最大限に生かされていますが、取引先の生産者さんはどのように選ばれているのですか?」 「洞爺湖に引っ越してきたのは2023年の2月で、店のオープンは4月でしたので、野菜は根菜くらいしか手に入らない時期でした。お米は移住前から財田米を食べ比べ、宮内農園さんのお米を食べて「この美味しいお米なら洞爺でお店が出来る」と確信を持てました。宮内農園の佐々木ご夫妻には他の農家さんをご紹介頂いたり、自分達で道の駅で買って美味しかった農家さんにアポを取ってみたりとオープン前は奔走の毎日でした。出来るだけ地元の食材を利用し、地元の方にこんな美味しい食材が地元に有ったんだ!と再発見していただけるようなお店を作っていきたいです」。 特別なものを使うのではなく、地元の方がよく食べているものを使いたいという考え方は素敵だと思いました。 「地元食材を使いながらも、今まで無かった店、今まであまり食べる機会が無かった料理を、職人技で提供する店になりたいと考えています。 とは言え、いまは未だ試行錯誤の段階です。 地元の方に足を運んでいただくためには地域性も大切にしなければいけませんから」。 「ところで、お二人にお尋ねします。移住して良かったなあ〜と思う瞬間てどんな時ですか?」 「最高の食材がすぐ身近にあることが幸せです。 娘がのびのびと成長していると感じる時もまた移住して良かったと感じます」。と悠佑さん。 「洞爺湖を眺めながら大好きな温泉に入っている時です!笑」と美佳さん。 明るい美佳さんは早くも常連さんの人気者です。 「最後に目指しているスタイルがあればお聞かせいただけますか?」 「洞爺湖ならではの和食の店を確立したいです。この素晴らしい借景の中で、洞爺湖でしか食べられないものを提供したい。そのためにも、もっともっと洞爺湖のことを知りたいですし、洞爺湖の食材のことを研究したいです」。 そう力強く語った中村さんの元に、保育園から帰ってきた娘さんが「ありがとうございます!」と言いながらニコニコと現れました♡ ―湖の膳舎 なかむら 情報― 電話 080-9269-2578 住所 北海道虻田郡洞爺湖町洞爺湖温泉186-85 Instagram https://www.instagram.com/nakamura0321?igsh=MWR1bm9ieTBya28yNw==
Rietty
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Shinji