
心の伊達市民 第一号
マンションの友人のYさんに、私の撮影した新橋のガード下の写真を見せたら『アートだねー』と言われた。それがきっかけで、ガード下の壁画の写真を撮ることになった。
普段はあまり気が付かないが、電車のガードにアートがある。
そのアートを探して、山手線を中心に見て廻った。
【新橋】最近は東京BRTが出来たので、新橋が身近になった。
新橋はサラリーマンの町なので、高架下も殺風景でアートが無い。
でも見方によれば、その殺風景も切り取り方ではアートになる。
【新宿】新宿駅の西口と東口を結ぶ地下道がある。
以前はこの地下道は暗いし小便臭いしで、女性は怖くて通れなかった。
そこは昭和の香りが残っていた。しばらく前に、そこが改修されて「旧青梅街道」の壁画の絵巻が登場した。
現在は清潔で安全になったが、西口へ出ると昔ながらの「思い出横丁」がある。
最近はここは外国人観光客に人気があり、徘徊するだけでなく店に入り飲んでいる人達もいる。(youtube画像あり)
【新大久保】山手線にはどういうわけか、ガード下にアートがある。
新大久保と言えば「韓流」であり、多くの女性達が訪れる。
山手線の沿線のガード下には、「壁画」が多く書かれている。
殺風景な場所をアートで盛り上げようという、地元の思いが詰まっているのである。
「新大久保駅」は一時は「韓流」で、大変な人気の場所だった。
しかし最近の新大久保はアジアの色々な国から来た人達が多く住んでいるので、「小さな幸せが生まれる場所にしたい」と願い「天使」の絵が描かれている。
【高田馬場】ガード下のアートの真打はなんと言っても、高田馬場だろう。
ここのガード下には、手塚治虫の「アトム」が登場するからだ。
壁画は巨大で、ここでは1枚しか写真を紹介できないのが残念だ。(youtube画像あり)
高田馬場と手塚治虫の関係だが、以前は仕事場があったそうで、いまは手塚プロダクションがオフィスを構えている。また駅で電車の発車メロディには「鉄腕アトム」のテーマ曲が使われている。
【恵比寿(1)】
駅を降りて渋谷寄りの改札を出ると、以前に私が取材した「TOKYO TOILET」がある。
そのすぐ先に山手線のガードがあり、そこへ行くと驚かされる。
なにしろ派手なのである。こちら側と向かい側の壁面が、派手な絵で埋め尽くされている。この壁画は一般公募により選ばれた、この町で生まれ育ったクリエーターの白川深紅さんの作品だそうだ。
「ガード下は暗い」というイメージを吹っ飛ばしている。
恵比寿の町に合わせて「恵比寿さま」、「七福神」、「祭」などが「これでもか!」と描かれている。私の「ガード下」のイメージが変ってしまった壁画だった。
【恵比寿(2)】恵比寿駅から渋谷方面に向かうと、庚申道架道橋がある。
そのガード下にバリー・マッギーによる巨大な壁画があった。
渋谷区は災害時の一時退避場所と避難経路を来街者や区民のに周知する活動で、「一時退避場所」の位置をアートを通じて情報発信し、平時からの防災意識の向上や災害への備えを促すことを目指している。
しかし恵比寿駅横の壁画を見た後では、どうにも地味である。ハリー・マッギーはサンフランシスコを拠点に活動するアーティストだそうだが、恵比寿のガード下では負けている。
【水道橋】これだけは山手線から外れて、総武線の「水道橋駅」である。
ここは後楽園や大学があるので、かなりの乗降客がある。
駅の下くらいの場所にアートがあった。
タイトルは「小さな三崎祭」で、近くの三崎稲荷神社の例大祭をモチーフにしている。
防犯で警察に協力している、「ワテラス ステューデント ハウス」に住む学生達が制作したそうだ。面白い絵だったが、前に置かれたバイクが邪魔だった。
(おまけの話)【有楽町】
私の一番身近な場所である「有楽町」のガード下でアートを探した。
有楽町から新橋に向かうと、すぐに晴海通りのJRのガードがある。
その入口に落ちかかったサインで、「YURAKU CONCOURSE」と書かれている通路がある。
その狭い通路に入ると、右側の壁に古い日本映画のポスターが貼ってある。
もうかなりボロボロだが、懐かしい俳優が出ている。左側は小さな飲み屋街や飲食店で、とてもいい感じだ。夜は分からないが、サラリーマンで賑わっていそうだ。
晴海通りを渡りそのまま進み、最初のガードがある。
右へ行けばミッドタウン日比谷である。そこをガード下の左へ行く。
右手には夜のために、焼き鳥の串差しをしている店員の姿がいつも見られる。
ガード下は薄暗いので、前方の明りが眩しい。
最近は昼間から、外国人観光客が「一杯やっている」姿を見掛ける。
電車が通る度に、上からガッタン・ゴットンっと音がするのだろう。
通路を抜けて、すぐの狭い路地を右に行く。
「こんなところに入っていいの?」、という感じの狭い路地である。
少し行くと突然、眩しいくらいの光景に出会う。
昼間から左右の居酒屋が、「これでもか!」という明かりを灯している。
この路地は店の中を歩いている感じになり、気弱な人は歩けない。
そこを抜けて振り返ると「有楽町産直市場」の看板が、光り輝いている。それも含めて、日本のアートになっている。
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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確固たる想いを洞爺湖で実現させたい! 〜『湖の膳舎 なかむら』 和食職人 中村 悠佑氏〜
2023.4.25 OPEN以来、ずっと気になっていた方をようやく取材することができました。 今回の主人公は『湖の膳舎 なかむら』代表 中村 悠佑さん 千葉県出身、東京都育ち、1児のパパです。 “ My洞爺湖! “ そんな勘違いをしてしまいそうになる景色。 広い窓いっぱいに洞爺湖が見渡せる贅沢空間にその店舗は存在しています。 和食職人と言うと、中学校を出て直ぐ料理の修行をするようなイメージがありましたが、中村さんは和食職人としては珍しい大卒者です。 「本当は、高校を出たら直ぐに飲食業につきたいと思っていました。早くこの世界に入りたかったのです。けれども、親の説得を受けて大学へ行くことになりました」。 とにかく飲食業が好きだった中村さんは、高校一年生の時からファミリーレストランやイタリアンレストランで、大学に入学してからは居酒屋でアルバイトをする日々でした。 「大学では文学部に所属していました。 実はあるリース会社に就職も内定していました。 でも、居酒屋でアルバイトしていた時に感じた、お客様が料理とお酒を楽しんでいる雰囲気がとても好きだったという気持ちを捨てきれず、どうしても飲食業への道が諦められず、その会社を断ってしまいました」。 そんな中村さんが大学卒業後に選んだのは調理師専門学校への入学でした。 「最初はフレンチ志望でした。 かっこ良く見えたんでしょうね。 授業では、和・洋・中をそれぞれ学ぶのですが、授業の中で試食をした時に体にも舌にも自分は和食に向いていると実感しました」。 専門学校卒業後、中村さんは赤坂や新宿の料亭で働き始めました。 修行時代の始まりです。 「就職して初めて飲食業の本当の厳しさを知りました。 労働環境は劣悪でしたよ笑 勤務時間は07:00~25:00 休みの日も糠床をかき混ぜるために出勤していました。 それでもそれほど辛いとは感じなかった。 修行時代を6年ほど過ごし、独立を決めました」。 29歳の時に独立を決めた中村さんは、東京中野の駅前に店舗を構えました。 30席もある店だったそうです。 “ この人みたいになりたい! と憧れる人はいない “ ときっぱり言い切った中村さん。 どこかで聞いたことがある…と思ったら、大谷選手が言った言葉でした。 「え?彼もそんなことを言っていましたか」。と、ご存知なかったご様子。 「修行時代、味付けはさせてもらえませんでした。味付けは最高の位置にいる人の仕事ですからね。 だから、味覚のトレーニングと料理の独自の研究は常に怠りませんでした。 自分の味付けは自分の店を始めてから学びました」。 なるほど。 以前、ある方から、洗い物をする時に鍋についたものやお客様の皿を舐めて味を覚えたという話を聞いたことがありましたが、やはり料理人の世界は厳しいのですね。 「妻は自身で店を持つことを夢に持ち割烹料理店で修行しており、2人で店をスタートしました。東京のお店は住宅街のひっそりとした場所で始めましたが、そこの住宅街にお住まいのお客様はもちろん、近隣の会社様の接待の需要も有り様々なお客様にお越し頂いておりました。その店は、12年間営んでいましたが、北海道行きを決め2023年1月31日に閉じました」。 きっと惜しまれつつ閉じられたのだと思います。 それが証拠に、その時のお客様が東京から洞爺湖までお食事にいらっしゃると言います。 「中村が洞爺湖に店を出したらしいと聞きつけた中野の割烹料理屋時代のお客様がわざわざ来てくださいました。 本当にありがたいです」。 「ところで、何故、洞爺湖を選ばれたのですか?」 「妻の美佳が北斗市出身なのです。いま娘は3歳なのですが、子育ては自然豊かな北海道で育てたいと予々考えていました。そういう視点で北海道を旅した時に、洞爺湖がとても気に入りました。移住するならここが良いなと。でも、果たしてここで商売が成り立つのか? とても不安でした」。 そんな心配を余所に、オープン直後から多くの客様が足を運ぶ店となりました。 「雑誌の「Poroco」や「Ho」に掲載されたことは大きな宣伝になり、とても感謝しています。 札幌圏の方も来てくださるようになりました。ですのでお陰様で夏は順調でした。でも、冬が心配だった。ところが、今度はインバウンドのお客様もたくさん来てくださるようになりました。 シンガポール・タイ・台湾の方が多いです。 海外のお客様は積極的にGoogleにコメントを入れてくださいますので、それをご覧になったお客様がまた来てくださいます」。 予約専門のお店のため、来店者数に合わせて仕込みができるのも強みのようです(席が空いていれば飛び込みも受け付けてくださるそう)。 「どのお料理も素材の味が最大限に生かされていますが、取引先の生産者さんはどのように選ばれているのですか?」 「洞爺湖に引っ越してきたのは2023年の2月で、店のオープンは4月でしたので、野菜は根菜くらいしか手に入らない時期でした。お米は移住前から財田米を食べ比べ、宮内農園さんのお米を食べて「この美味しいお米なら洞爺でお店が出来る」と確信を持てました。宮内農園の佐々木ご夫妻には他の農家さんをご紹介頂いたり、自分達で道の駅で買って美味しかった農家さんにアポを取ってみたりとオープン前は奔走の毎日でした。出来るだけ地元の食材を利用し、地元の方にこんな美味しい食材が地元に有ったんだ!と再発見していただけるようなお店を作っていきたいです」。 特別なものを使うのではなく、地元の方がよく食べているものを使いたいという考え方は素敵だと思いました。 「地元食材を使いながらも、今まで無かった店、今まであまり食べる機会が無かった料理を、職人技で提供する店になりたいと考えています。 とは言え、いまは未だ試行錯誤の段階です。 地元の方に足を運んでいただくためには地域性も大切にしなければいけませんから」。 「ところで、お二人にお尋ねします。移住して良かったなあ〜と思う瞬間てどんな時ですか?」 「最高の食材がすぐ身近にあることが幸せです。 娘がのびのびと成長していると感じる時もまた移住して良かったと感じます」。と悠佑さん。 「洞爺湖を眺めながら大好きな温泉に入っている時です!笑」と美佳さん。 明るい美佳さんは早くも常連さんの人気者です。 「最後に目指しているスタイルがあればお聞かせいただけますか?」 「洞爺湖ならではの和食の店を確立したいです。この素晴らしい借景の中で、洞爺湖でしか食べられないものを提供したい。そのためにも、もっともっと洞爺湖のことを知りたいですし、洞爺湖の食材のことを研究したいです」。 そう力強く語った中村さんの元に、保育園から帰ってきた娘さんが「ありがとうございます!」と言いながらニコニコと現れました♡ ―湖の膳舎 なかむら 情報― 電話 080-9269-2578 住所 北海道虻田郡洞爺湖町洞爺湖温泉186-85 Instagram https://www.instagram.com/nakamura0321?igsh=MWR1bm9ieTBya28yNw==
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