
心の伊達市民 第一号
8月10日に「ブログ閉鎖中の話題」を投稿したが、その日のブログは「浅草サンバカーニバル」だった。そのブログの記事は2014年のことで、もう10年も経っている。
「10年ひと昔」という言葉があるが、これじゃ私も年をとるわけだ。
・・・というわけで、10年ぶりに「浅草サンバカーニバル」に出掛けてみた。
もちろん最大の目的は「動画撮影」であるが、果たして上手く撮れるか?
行く前に「浅草サンバカーニバル」のホームページを開いてみた。
このイベントはかなり歴史があり、解説によると「昭和30年代後半から40年代にかけて、当時の内山台東区長と浅草喜劇俳優の故・伴淳三郎氏が、浅草の新しいイメージを作るものとして、ブラジルのサンバカーニバルを浅草のお祭りに取り入れることを提案」
「これをきっかけに、地元商店主が運営主体となる浅草サンバカーニバルが誕生した。現在では約50万人の観衆を魅了する夏のフィナーレの大イベントとして、全国規模で定着した」とある。
10年前に私が行った時も盛大ではあったが、これほどではなかった。
本場のブラジルからもダンサーが参加していたが、今年の参加はあるのだろうか?
50万人も来るとなると、果たして撮影など出来るかとちょっと心配になった。
主催者からのご注意として「ドローン撮影禁止」、「自撮り棒禁止」となっている。
見物は指定の柵内で、立ったまま見る。スタート地点近くには特別指定席があり、「1口1万円」の協賛金で入れるようだ。
12時にサンバカーニバルの踊り子たちが、京成浅草駅の先からスタートするらしい。
私は10年ぶりで様子が分からないので、10時に家を出た。この日は全くの夏日で気温も35度で、熱中症危険情報が出ていた。
いつまでも夏が続き、秋が来ないうちに冬になってしまいそうだ。
炎天下の撮影なので冷やした麦茶を持ち、熱中症にならないように気を付ける。
今回のサンバカーニバルの出演は地元小学校の吹奏楽団など4団体、コンテストの対象となるチームは「S2リーグ」が7チームで1200名、「S1チーム」は8チームで2600名だった。開会の挨拶で会長が話していたが、「浅草サンバカーニバルは北半球で最大のサンバカーニバル」だそうだ。
それにしても暑い。直射日光の下で、場所を取られてしまうので動くことも出来ない。サンバの各チームには専門の「噴霧器」を持った男がいて、彼がチームの中を歩き回り霧を吹き掛けている。
その噴霧器は農家の人が背中に背負って、殺虫剤を撒いているのと同じ道具である。
「S1」と「S2」の違いが分からないので、家に帰ってからネットで調べてみた。
これはリオのカーニバルになぞらえて、パレードの内容を審査員や沿道の観客によるモバイル投票などの祭典式により順位や優勝が決まる。その年のS1リーグで最下位となると、翌年はS2リーグに降格になる。
またS2リーグで優勝すれば、S1リーグに昇格となるそうだ。審査員席はゴール近くにあるので、そこまでの距離は約1キロだ。そこまで元気で辿り着けるか?
例年なら9月も半ばとなれば、秋風が吹いて来る。だから衣装もその頃を想定して、作っているチームが多い。
最初の方で登場したチームのダンサーは、赤青黄色の分厚い衣装だった。
しかも頭巾のようなものを被っている。見ている私は気の毒になった。
衣装係は後で文句を言われただろうが、熱中症のダンサーが出なければ良いが・・・。
私は4チームまで我慢して見たが、もうそれ以上は無理だった。来年はもう来ないだろう。
(おまけの話)
早く現地に着いたので、まだ席取りの心配は無かった。どこが良いか迷ったが、雷門近くは既に大勢の人が来ている。吾妻橋の交差点なら、右折で曲がって来るダンサー達を正面から捉えることが出来ると考えた。
しかしそこは立ち入り禁止で、ダメだった。仕方ないので、スタート地点まで歩いて行った。そこには「1万円」の有料席があった。まだ時間が早いので誰も座っていないが、直射日光が射し込んでいる。
反対側の私の場所はビルの日陰なので、無料のこちらの方が良いのでここで撮影することにした。ところがスタートの12時になったら、両方とも直射日光になってしまった。
熱中症になりそうなので、大音響のサンバの音楽と直射日光から逃れて二天門から浅草寺に入った。
こちらも大勢の観光客が来ているが、大音響が無いのでまるで静寂のように感じた。
六区に行ってランチにしようと思ったが、レストランはどこも混雑していて入れない。「うどん屋」も無いので、いつものラーメン屋「めんまる」に入る。
六区のメインストリートを歩くと左側は場外馬券売り場「ウインズ」、右側の「ロック座」前には若者がストリップショーを見るために並んでいる。その先にはいろもの演芸の「東洋館」、続いて落語の「浅草演芸場」と劇場が続く。私のその先の「サンマルク」に私は入り、クリームあんみつで一休みした。ラーメンが380円で、クリームあんみつが680円は高過ぎだ。
サンジェルマンで休んだ後に、「すしや通り」を通り抜けて、雷門通りに出た。
そこがサンバカーニバルのゴールとなっている。遠くから見ても、大混雑の様子が分かる。もう疲れて帰るつもりだったが、最後にもう一度、サンバを人ごみの中から見た。
そして地下鉄の駅に向かったら、地下に下りる場所でジイサンが頭から血を流して倒れていた。まだ救急車が来ていなかったが、きっと熱中症で倒れて頭を打ったのだろう。
私はなんとか大丈夫だったが、ヨロヨロしながら家に帰ったのである。
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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ふらり旅人からのゲストハウス 自由人 小林圭子氏 〜想いと直感のままに『ポンコタン』
今回の主人公は洞爺湖の近くでゲストハウス『ポンコタン』を営む小林圭子さん。 旭川出身の47歳。 洞爺湖に移住する前は名古屋で商売をされていました。 「北海道には30代後半からバイクにテントを積み、 ふらりと旅しに来ていました。」 洞爺湖との出会いは、 2018年に「幸せのパン」の映画の舞台になったところを見てみたくて 青春18きっぷでふらりとやってきたのが初めてでした。 ところで圭子さん。 なんと言うか・・・。 「以前、どこかで会いましたっけ?」 そんな錯覚を起こさせる人です。 あの、バリアフリーな雰囲気は一体どこからくるのだろうか? 探ってみたくなりました。 旭川から札幌へ。 そしていきなりポン!と名古屋へ飛んだ圭子さんが始めたのは、 なんと”バナナ焼き屋“のお店でした。 店の名前は「パピリカ」。 それはアイヌ語で「豊作」という意味です。 バナナ焼き屋をやろうと思った理由は〜。 「小さい頃から食べていたソウルフードだったから」 ただそれだけの理由で、 古くからお菓子文化が発達している(駄菓子の製造所も多い)名古屋で店を出そうとは、 普通はなかなか考えつかない。 でもそれをひょいっと始めてしまうところが圭子さん流。 深くは悩まない。 やりたいからやる。 ただそれだけ。 そんなシンプルさが、度胸を超えた何かを感じます。 パピリカ時代のHPを見つけました。 熊が鮭ならぬバナナを咥えている姿が なんともユニークで忘れないロゴです。 何事もサラッと話す割には材料にはかなりこだわっています。 卵も牛乳も使用していないので(カスタード以外)、 卵アレルギーや牛乳アレルギーの子どもを持つ親御さんも よく買いに来てくれたそうです。 そして白餡はしっかりと手作り。 バナナ焼きと言えば旭川の名物お菓子。 この時お話を伺うまで知りませんでしたが、 旭川のバナナ焼きにもバナナそのものやバナナエッセンスなど、 バナナフレーバーは一切入っていないそうです。 バナナ焼きとは、形からだけ連想するネーミングのようです。 とても美味しそう〜! 食べたかった〜! パピリカはすぐに地元に溶け込み、 8年間営業を続けました。 その時の繋がりは今も続いていると言います。 人懐っこいと言う表現とも違う、 相手に壁を作らせない不思議な力を圭子さんは持っています。 「いろいろなところから転勤してきた人たちが多く住むところでした。 近所の方がよく買いに来てくださっていましたよ。 家賃を払いつつ、 女ひとりが食べるだけの分はなんとか稼げていました。」 「ところで、ポンコタンは小さな村という意味。 パピリカは豊作という意味ですよね? どちらもアイヌ語ですが、なにか特別な意味があるのですか?」 そんな筆者の質問に 圭子さんはまたもやあっさりと答えます。 「いや、なんとなくです。」 まただ…。 やはりこんな調子…笑 筆者はその言葉の背景を知りたい!と質問をしても、 決してはぐらかす訳ではなく、あくまでもサラッと答える。 想いが至極シンプルだからこそ、 きっとその時の直感のまま「なんとなくそうしよ」と 思った通りに動いてしまうのだろうと思います。 しかも、転機にはだいたい誰かが力を貸してくれる。 これはもう人徳です。 気負わず流れに任せるというのは、実は楽そうで楽ではない。 でも圭子さんは素直に誰かの力を借りながら、 とても自然にその技を使ってしまう。 「名古屋の友人がゲストハウスをしていたんです。 あらたに宮古島でゲストハウスを始めるにあたって、私も少し手伝いました。 その友人は度胸があるというかなんというか、 外国人が結構泊まりに来ていたのですが、英語は喋れないんです。 でもなんてことなくやっているのを見て、 私も妙な自信をつけてしまいました。 『そうか、英語ができなくても宿屋はできるんだ』 ってね。」 「その辺りから、ゲストハウスに興味を持つようになりました。 ちょうど、ふらりと洞爺湖へ足を運ぶ機会も増えていたこともあり、 洞爺湖の近くでゲストハウスをやることが ふわっとしたものから現実的になりました。 あ…その前にバナナ焼き屋を畳まないと。」 そう思った時、 店を丸ごと買いたいと申し出てくれた人が現れました。 それは元々はお客様だった友人で、古民家カフェを営んでいる方でした。 バナナ焼き屋営業終了2日後には洞爺湖に移住してしまうというスピーディーさ。 思ったらサラッと行動! その後、1年半をかけて建物をリフォームし、ポンコタンを開業されました。 「待っていてくれているような気がしていました。 洞爺湖はどっしりとしていて迎え入れてくれるような安心感がある湖だと感じています。 移住してすぐは、キャンプ生活をしながらあるホテルでバイトをしていました。 同時に物件探し。 そんな中、即決したのがこの建物でした。 借金も1000万円以上してしまいました。」 この建物は、昔、ある会社の社員寮だったところ。 なので、一部屋一部屋にトイレが付いていました。 さて、ゲストハウス「ポンコタン」は 内装・外装そのほとんどをDIYしています。 もともと建物に興味があったわけでもなかった圭子さんですが、 もの作り好きであったことが功を奏しました。 「必要に迫られた部分もありますが、 バナナ焼き屋時代に建物の内部構造にものすごく関心を持つようになりました。 そもそもは工事関係者への不満に端を発したのですが、 お陰で建築について色々知ることができました。 建物がどんなふうにできているのかを知るために、 分解しながら構造を理解していきました。 コンクリートにネジを入れるにはどうしたらよいか?とかね。」 冒頭に登場した仕切りに描かれた洞爺湖の絵は、名古屋時代の友人が描いてくれたもの。 「名古屋時代の友人たちは変人が多くて(笑) 尋ねてきては色々置いて行ってくれます。」 困ったふりをして、笑いながら話す圭子さんには、 遠くから支えてくれる友の存在に感じる安心感が表れていました。 圭子さんの仲間たちは、 「ポンコタン」のオーナーの とてつもなく自然体なおもしろキャラクターをよくご存知のようです。 「うちね。コンセプトなんてないのよね。」 圭子さん、突然、そうサラッと言った後でこう続けました。 「よく眠れました!って言ってもらえるのが一番嬉しいかな。 旅の途中で快適な時間をここで過ごしてくれたら、 それが一番嬉しい。 それとね。 今年の夏はすごく忙しかったのね。 借金あるからあと10年はやらないといけないけど、 とりあえず持続可能な宿を目指して働き方改革するわ(笑)」 「10年経ったら何するの?」 そんな問いに。 またもやサラッと 「わからないな」 と答える圭子さんでした。 帰り際 「また来て!」 と軽い調子で言われました。 「うん」 と答えてしまいました。 ポンコタンの魅力は この気安い感じなんだろうと思った筆者でした。 決して気負うことなく、 そのまんまの圭子さんが妙な安心感を与えてくれる取材の時間でした。 ゲストハウス ポンコタン 〒049-5721 北海道虻田郡洞爺湖町洞爺湖温泉97 080-6092-4967
Rietty
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