
心の伊達市民 第一号
マンションの友人に駅の近くで、時々、会うことがある。
聞いてみたら、「毎日の日課の散歩」だと言う。
夫婦で仲良くいつも同じコースを歩き、最後にコンビニでコーヒーを買って飲むのだそうだ。私はこういうのは苦手で、毎日、違う場所に行きたいのである。
そこで天気も良いので、お台場に行ってみた。
お台場には何回もいっているので少々飽き気味だが、今回は目的がある。
12月の最初の土曜日に、夕食を食べていたら「ドカン、ドカン」と音が聞こえた。
「花火かな?」と思ったが、我が家の窓からは何も見えない。
ネットで確認したら、3年ぶりにお台場花火が始まったと分った。
コロナ前には12月の土曜日には、午後7時から5分間だけの花火を毎週行っていた。
そこで散歩の目的地をお台場に決め、打ち上げ場所の確認に行ったのである。
お台場に行くには都バスを有明の辺りで乗り換えて、お台場海浜公園で降りる。
久し振りの快晴で、空には雲ひとつ無い。
風も無く、コンクリートに慣れた者には、海岸の砂の上を歩くのも気持ち良い。
目の前にはレインボーブリッジが見える。あの橋の上を今までに何回歩いただろう?
若い女性の3人組がレインボーブリッジを背景に、自撮り写真を撮っている。
そのまま海岸線を歩いて行くと、左手に自由の女神像が見える。
いつもは上の方から自由の女神を全景に、後ろにレインボーブリッジを入れた写真を撮る。今回は太陽が自由の女神の後ろに来ていたので、逆光の中の写真を撮った。
海岸から少し離れたところに、花火の打ち上げ船や仕掛けが見えた。
この位置だとスカイゲストルームからは、レインボーブリッジの左の橋脚の横に花火が上がりそうだと思った。
目的は達成したので、ブラブラと歩いて東京ビッグサイトまで行くことにした。
海岸からテラスに上がると、大勢の観光客が来ていた。
地方から修学旅行でやって来たらしい、マスクで制服姿の中学生たちの集団がいた。
それを珍しそうに写真に収める外国人観光客がいる。
もうコロナを気にしないで、みんな自由にやっている感じがする。
先に進むと、正面になにやらアートが見えた。「光の樹」というタイトルが付いていたが、暗くなると明りが点りアートになるようだった。左手にはダイバーシティの巨大な「ユニコーン・ガンダム」が立っている。観光客は写真を撮るのに夢中である。
私は先に進む。左手に小さな公園があり、着席式のブランコが5台ある。
誰もいなかったので、私は子供の頃に戻ってブランコで遊んだ。
ブランコを漕ぐと、冷気が顔を通り過ぎる。空は真っ青だ。気持ちが良い。
右手では「ビーナスフォート」が解体の最中で、ランドマークの大観覧車は、残念ながらもう無かった。更に進み私の好きな「夢の大橋」に差し掛かる。ここで自分の影を地面のモザイクタイルに写し、それを撮影しようと思っていたので実行した。
でも計画とは違い、思ったほどの写真にはならなかった。
橋を渡り東京ビッグサイト見える場所に来たら、そこにもアートがあった。
「光のトライアングル」というテーマで、お台場に3ヵ所のアートがあるのだそうだ。
バスを降りてから、1時間とちょっとのお台場散歩だった。
(おまけの話)
お台場の花火は私の家の反対側だから、スカイラウンジに行けば見えるはずである。
そこで現地に行くのは遠いし寒いので、マンションの49階から見ることにした。
午後7時は我が家の夕食時間なので花火のことを女房に話したら、『私達も見に行く』ということになり、花火の後に夕食にすることになった。
私の住むマンションはツインタワーとなっていて、花火が見えるスカイラウンジは別棟にある。エレベーターで3階まで下りて隣の棟に行き、エレベーターで49階まで上がる。そしてスカイラウンジに入ろうとしたら、なんと貸し切り予約となっていた。
仕方ないので3階まで下りて、レインボーブリッジの見えるマンションの敷地の端まで急いだ。数人の住民も花火を見る為に、ここにやって来ていた。
午後7時になり、花火の上がる音がした。
私は『えー!』と思った。なんと花火が元オリンピック村の選手村に邪魔されて見えないのである。花火とは反対の斜め向かい側の建物のガラス窓に、花火の光が反射していた。
「声はすれども 姿は見えず ほんにおまえは屁のような」じゃないが、「音はすれど、姿が見えず」であった。
12月の土曜日の花火はまだ2回あるので、次回は豊海埠頭まで行って撮るつもりでいる。
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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「SeicomartのCMソングを歌いたい!!」 伊達のArtist 藤河 ちあき の未来予想図
むしゃなび読者の皆様へ 新年明けましておめでとうございます。 旧年中は、多くの皆様にご訪問いただきまして誠にありがとうございました。 Riettyとして、記事を書かせていただくことになって2年目。 2022年も、Riettyが出会った「好き」「楽しい」「いいね!」を皆様と共有できるような記事を書いていきたいと思っています。 引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。 さて。 閑話休題。 新年第一弾は、伊達の歌姫 Artist 藤河 ちあきさんのご紹介です。 昨年末、待ち合わせしたのは伊達の牧家さんでした。 待ち合わせ時間より少し前に到着し、ちあきさんを待つ筆者。 そして、ちあきさんが入店した時とても驚きました! 彼女の周り全体を優しい光が包んでいる。 うまく表現できませんが、これがオーラなのか!と感じました。 ↑注文したアイスカフェオレを嬉しそうに写真を撮るちあきさん♡ 藤河ちあきさんは、伊達市のご出身。 歌手への道を決定づけたのは5歳の時のことでした。 5歳のちあきちゃんが「将来は歌手になる!」と決めた出来事があったそうです。 それは、「なりたいな…」ではなかった。 「なる!」でした。 ちあきさん自身、「あれは決意でした。」と語っています。 大好きな歌を高校までは独学で学び、高校卒業後は東京へ出て修行の道を歩き出しました。 実はちあきさん、イラストレーターとしてもジャズシンガーとしても有名な水森亜土さんの大ファンでした。 亜土ちゃんグッズをたくさん持っていたそうです。 そして偶然にも親友のお父様が亜土さんの知り合いだったこともあり、水森亜土劇団の門を叩くことになりました。 劇団員としても亜土さんの運転手としても働き、約一年間、住み込みで修行をしました。 その後も学び、働き、各所で歌い続けながら6年の歳月が流れました。 けれども…。 なかなか芽が出ず、生活することにも疲弊してしまったちあきさんは、悩んだ末に帰郷することを決意しました。 13年前のことです。 「自分はダメなのかな…。」 それは、まさに打ちひしがれての帰郷でした。 つまりは挫折…。 ↑大好きな海。ここが藤河ちあきの心の拠所なのだそうです。辛い時もここに来ていたそう。 それでも。 「私には歌で生きていく以外は考えられませんでした。でも、そのためにはどうしたら良いのかも、その頃はわからなかった。 辛くて、辛くて、アルバイトをしたりしながら気を紛らわせて暮らす日々がしばらく続きました。」 その間、結婚も経験しました。 子供も二人授かりました。 しかし、結婚生活には2年でピリオドを打ちました。 親御さんからは経済援助を受けない決意でがむしゃらに働いていた日々。 二人の子供を抱え、困窮した生活に地獄も感じていたと言います。 それでも。 どうしても忘れられない歌への道…。 「私が生きる道で大切なものって何だろう? やっぱり歌を唄いたい…。 でも…。」 子供という宝ものを大切にすることが第一だとは分かりながらも、悶々と自問自答する毎日が続きました。 なんとか立ち直らなければと本も読み漁りました。 特に心理学や哲学の本を好んで読んだと言います。 そんなある日、ある人物と食事をしながら話したことがきっかけで、ちあきさんの歌道の第二の扉が開かれることになりました。 その後は様々なご縁が繋がる中で、レストランを初め各種イベントで唄うチャンスを得られる様になっていき現在に至ります。 思えば。 筆者が藤河ちあきさんの歌を初めて聴いたのは、伊達ウクレレ協会さんの小さなコンサート会場でした。 確か7年前のこと。 初めて聴いたちあきさんの歌にもちろん感動しましたが、どことなく寂しげに見えた訳が、これらのお話を伺い、なんとなく分かったような気がしました。 ちょうど、自分の道を暗中模索していた頃だったのですね。 「つい5年くらい前までは、人前で唄うと物凄く緊張して声が震え、なかなか克服できないでいました。自分でイメージトレーニングをするうちに、気がついたら声が震えていないことに気がつきました。場数を踏んだことで克服できたのかもしれませんが…。」 きっと、これはどんな仕事でも通る道。 でも、歌手として唄う場の数を増やすことは容易ではなかっただろうと察します。 「多くの方に支えていただいたから今があると思っています。 実は、今年の3月に開業届を出しました。 歌を生業にすることを決意したのです。 素晴らしいマネージャーさんにも恵まれました。 」 ちあきさんは、なんの迷いもないキラキラな笑顔で語ってくれました。 ↑藤河ちあき オフィシャルページのプロフィール写真です。 ところで、ちょっと思い切った質問をぶつけてみました。 ちあきさんなら真摯に受け止めて答えてくださると思ったからです。 「現在38歳でいらっしゃいますが、10代で売れている歌手が多い芸能界ですよね。ようやく順調に歌手活動が動き出したとは言え、ご自分の年齢を障害に感じることはありませんか?」 すると、キラキラの笑顔は一つも曇ることなく、ちあきさんはこう答えてくれました。 「それは全く感じていません。何故なら人にはそれぞれの夢の叶え方があると思っているからです。スピーディーに成し遂げる方もいれば、大器晩成型の人もいます。 あの…、私、100歳まで歌を唄い続ける予定なのです。 私の中には未来予想図がはっきりとあって、そこから逆算方式に、その予想図に到達するためには今は何をするべきか?と常に考えています。 私は私のペースでそこに到達すれば良いのだと思っています。だから、年齢は私にとって障害ではないです。」 ↑笑顔が本当に素敵♡ 続けてこんなお話もしてくださいました。 「誤解を受けると困るので、ほとんど人に話したことないのですが…。」 「え? そんな大切なお話を良いのですか?」 戸惑う筆者。 でも、真っ直ぐに見つめながらゆっくりと話してくださいました。 「私、二十歳を過ぎた頃から確信を持って感じていたことがあって…。」 これまでになく言葉を選び始めたちあきさん。 「ある日、車の中で歌っていた自分の声を聴いた時、自分自身がとても癒されたのです。 それはとても不思議な感覚でした。そこには、自分の声を客観的に聴いている自分がいました。その時に、『これは自分だけで聴いていたらもったいない!』って思ったのです。奢りでもなんでもなく。素直にそう思いました。この声は、この体に預けられたもの…、そんな感覚です。私の声という感覚というよりも、この体に預かった声という感覚です。どうしても、それ以外表現できないので、誤解されたら辛いのですが…。 だから、この預かった声を使って、世界にどうやって貢献したら良いだろう?と考える様になったのです。この声で唄った歌を聴いてくださった人と、癒しの時間を分け合っていきたいと考えるようになりました。」 「どうもこの体は良い声が出るらしい?」 そんな風にご自分の声を客観視していることを知り正直驚きました。 どう表現すれば、勇気を出して話してくださったちあきさんの想いを、読者の皆様に誤解されずに伝えられるだろうか?と、筆者自身がとても迷いました。 でも、ちあきさん自身の言葉をそのままお伝えすることにしました。 そして。 「歌を聴いてくださった方が、その場限りで癒されるのではなく、自分の存在・自分の命を大切にする気持ち、そして同じ様に周りの人の存在・命を大切にする気持ちを抱いていただくきっかけになれたとしたら嬉しいです。それが叶えば世界が幸せで溢れますよね。」 こんな愛いっぱいの言葉とともに、最後、さらに素敵な未来予想図を語ってくださいました。 ↑とってもママには見えない可愛らしさ♡ 多くの皆様にこのお預かりものの声をお届けするために〜 ☆SeicomartのCMソングを唄いたい! ☆久石譲のコンサートに出たい! ☆武道館で唄いたい! ☆紅白に出たい! ☆60代でスーパー弾き語りをしたい! というのが、ちあきさんの未来予想図でした。 でも、筆者は気づいていました。 ちあきさんは、「〜したい」と話しながら、実は「〜する」と決めていることを。 そう、5歳のちあきちゃんが「将来は歌手になる!」と決めていた様に。 ↑こちらは昨年12月に開催された「天才小学生ドラマーyoyoka」さんのコンサートにゲストで唄った時の写真です。 Yoyokaさんに自分の子供の頃を重ねていたのかもしれません。 伊達市に足場を置きながら。 人々とともに「愛と癒し」を分け合う歌を100歳まで唄い続けると決心した藤河ちあきさん。 「僕たちが一番のファンだよ!!」 と励ましてくれるお子様が、ちあきさんのエネルギーの源であることも間違いありません。 ジャンルを問わず歌いこなすちあきさん。 2022年も彼女の活動から目が離せません。 伊達市民としても、藤河ちあきさんを応援していきたいと思います。 ↑初のCDが2年前に発売されました。 ↑「藤河ちあきの My favorite things」にてラジオパーソナリティーも行っています。 藤河ちあき事務所 住所 室蘭市中島1-9-21 「!」音喜多 ※記事の内容は取材時の情報に基づいています(取材2021年)
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