
心の伊達市民 第一号
一度きりの人生だから
伊集院静のエッセイ「一度きりの人生だから」を読んだ。
この年になると人生の本を読んでも、今さら手遅れで参考にもならないのである。
ただ「そうだったよなー」という共感するものはある。
自分の人生を振り返ってみると、失敗の連続ばかり他人に誇れるものは何も無い。
サラリーマンより多少は経済的に恵まれたので、多くの経験が出来たことが良かったと思う。

廊下の角から覗いているペッパー
人によっては『人生は一度でいい。こんな辛い人生をもう一度はやりたくない』という人もいるだろう。
また『こんなにいい人生なら、もう一度やってもいい』という人もいるだろう。
私の場合は『どうか?』と問われれば、『一度でいい』と答える。
もう一度、同じ人生をやれば『もっと上手くやれるという自信はある』が、これは経験したか言えることだ。でもいずれにしても2度目はマンネリになるから、私はやりたくない。

晴海通りの銀座で覗いている天使
羨ましいような人生を送っている人もいるが、そんな人でも人知れず問題を抱えて苦労しているはずだ。
欲を言いだすと、キリがない。
もっと「芸術の才能が欲しかった」、「音楽の才能が欲しかった」、「語学の才能が欲しかった」、「大会社を経営してみたかった」、「海外で活躍してみたかった」など色々ある。
ただ最近の若者と違って私は目立ちたくなかったので、これは「その通り」になって良かった。

晴れた日の銀座通りの「歩行者天国」は人出が増えた。
伊集院静も書いているが、「若者は旅をすべきだ。旅から学ぶことは多い」というのは賛成できる。
私は人生で多くの旅をした。初めての旅がニューヨーク滞在で、そこでレストランで働いた。
これは代えがたい強烈で貴重な経験で、これがキッカケで私は外国と旅が好きになった。
長い人生で私が出費した最大のものは多くの人同様に「家」であるが、次は「旅」である。
それもケチらずに、会社の出張では飛行機はエコノミーを利用したが、結婚後の個人旅行ではビジネスクラスに乗った。

築地大橋の橋脚の間から見える東京タワー
そして「金で買う世界がある」ということを、実体験で知ったのである。
旅先ではレンタカーを借りて、行きあたりバッタリの旅も多くした。
しかし全てを自分で行わなければならないので、当然だがリスクも大きい。
それで失敗したことも山ほどあり、しかしそれで外国人との付き合い方を学んだ。
日本人の性格である『全ては言わず、察してくれ』は、世界では通用しないことも学んだ。

数寄屋橋交差点の「Sony Plaza」の工事現場の壁はアートだ。
タイの名門ホテル「オリエンタル・ホテル」では、白人と私達との対応に差があるので、支配人宛に英文の手紙を書いて置いて来たこともある。帰国後、しばらくして支配人から長文の手紙が届き、『差別があったなら、申し訳ない。社員の教育をやり直す』と書いてあり、簡略なプログラムも同封されていた。
ホテルやレストランはお客によって「良くも悪くもなる」のだから、正当なクレームは付けた方が良いのである。今までに仕事の出張も含めて、外国には100回くらいは行っている。日本では問題はほとんど起きないが、外国では起きる。
そうして私は色々と学んだのであるが、『それを何に生かしたの?』と聞かれると、あまり生かしていない。

銀座に何軒もあるパリ風のカフェ「MIYUKI-KAN」
今までに多くの友人達を「病気」、「事故」、「コロナ」などで失って来た。
長生きすればするほど、悲しい別れに直面することが多くなって来る。
最後のことを考えて「断捨離」もし、法名も頂き、墓も用意したのに、いまだに悟ることが出来ないでいる。
朝起きて朝食を食べ、しばらくして家を出る。そしてどこかでウロウロしてランチを食べて家に帰る。
夕食を食べて風呂に入り、自室に籠る。本を読んで眠くなると寝る。
これを繰り返しているが、『こんな人生でいいのだろうか?』と悩みながら生きている。

1990年に閉店となった日本最初のシャンソン喫茶「銀巴里」跡地
(おまけの話)
外国へ行くと、思い掛けないことに出会うことも多い。その中から、3ヵ国の話を簡単に紹介する。
【アメリカ】
1964年にニューヨークで開催された「NY世界博」で働いていた時の話である。
時々、日本レストランに来ていたアメリカ人に、自宅に遊びに来るように誘われた。
そこで先輩のウェイターを誘って出掛けて行った。
その時にその人から第2次世界大戦の時に、戦地で拾った寄せ書きのある日章旗を返還されて狼狽えた覚えがある。それを持ち帰って支配人を通じて日本大使館に届けたようだが、その後のことは分からない。
あの頃は私も若かったので簡単に受け取ってしまったが、もっと詳しい事情を聞いてお礼を言うべきだった。

暖かくなり、隅田川も水上バイクが疾走する(築地大橋から)
【オーストラリア】
若気の至りでオーストラリアの企業と合弁会社を作り、レストラン経営をして失敗したことがある。
ある時、オーストラリアのローマという町に住む、全国農協団体会長の家に泊めてもらった。
その時に会長から頼まれたことに驚いた。『いま牧童の家に日本人の若者が来ているが、なぜいるのか?いつまでいるのか聞いてくれ。その若者は全く英語が分からない』と言ったのである。
日本人の若者を呼んでもらい話をしたら、『日本で募集していた牧童のアルバイトに応募してここへ来た』と言う。どうも話が噛合わなかったが、日本とオーストラリアの間でそのような企画が持ち上がり、日本側が早とちりで募集をかけたらしい。
その後、企画はキャンセルになったのに、それを知らない若者がやって来てしまったらしい。
変な話だった。

遊覧船の屋上も観光客で溢れていた(築地大橋から)
【スイス】
娘の留学で家族でスイスの学校を何校か訪ねた時に、レマン湖の畔の小さなお城のホテルに泊った。
翌日の朝、清算をしたら、部屋に置いてある「ミニボトルの酒」が請求されていた。
私は『体質的に酒は飲まない。誰か従業員が飲んだのではないか?』と言って、その料金は支払わなかった。
その後に湖に出たら、定期船が出るところだったので、行く先も分からずに乗ってしまった。
着いた先は『Evian(エビアン)』というフランス領の港だった。
休日の町を散策していたら「エビアン」の会社があったので中を覗いていたら、偉そうな人が出社して来たらしく我々に話しかけて来た。『私達は日本から来た』と言ったら事務所に案内してくれて、エビアンの色々なグッズをプレゼントしてくれた。それ以来、我が家ではミネラルウォーターは「エビアン」と決めている。

隅田川を疾走するプレジャーボート(築地大橋から)
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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ミツバチの声を聴きたい!「anmi」が選んだ道
なんて素敵な笑顔の人なんだろう!! それは、今年の夏、初めて彼女に出会った時の印象でした。 ここまで顔いっぱいに心からの嬉しい!を表現する人はなかなかいないと思いました。 一体この人は何者なんだろう? どんな生き方をしている人なんだろう? 俄然興味が沸いたのを覚えています。 さて、今回のご紹介は豊浦町の地域おこし協力隊で養蜂家の久保亜由美さんです。 亜由美さんは、高校生までを札幌で過ごし、カナダの大学に留学しました。 専攻は開発学とスペイン語のダブルメジャー。 その後、カナダの大学の交換留学でメキシコへ1年、スペイン語の習得のため渡りました。 「サスティナブルデベロップメント」という言葉が今の様に頻繁に使われる前から、それを学び、大学卒業後もそれに携わっていた亜由美さんです。 でもある日、自分の生き方に疑問を持ち始めました。 「サスティナブルな社会を目指し、多様性を真に尊重する社会になるために、私はどう生きればよいのか?」 亜由美さんは、そんな深く困難な壁にぶつかり、自分の道を知るために手当たり次第アルバイトを始めました。 そして、東京の農業ベンチャー企業で働いていた2014年、ついに養蜂と出会います。 その後に働いたのが「銀座みつばち」さんでした。 初めてミツバチという生き物の生態を知り、亜由美さんは大きく心を揺さぶられました。 そして、社会性昆虫と言われるミツバチにのめり込んでいく自分を感じました。 悩み抜いた挙句に亜由美さんが出した答え。 それは。 「多様なものは多様なままの未来である続けるために、私は農業と教育に力を注いでいきたい!」 というものでした。 真面目で正直で信じたらとことん突き進むタイプの亜由美さんは、1年間、埼玉の養蜂家に師事し、さらに知見を深めようと1カ月間、ニュージーランドでのワークアウェイへと旅立ったのでした。 ↑ニュージーランドにて。養蜂の師匠と。 亜由美さんにとって、ミツバチの魅力って何ですか? と質問をしてみました。 「ミツバチは、集団生活をする上でそれぞれにはっきりとした役割を持っているのです。 女王蜂の存在は絶対ではあるのですが、実は集団の統制を執っているのは働きバチです。 何よりも感動したのが、“それぞれのハチたちが個のために生きているのではない”ということでした。種が持続可能であるために、各々の役目を全うしている(このあたりは捉え方が様々だと補足してくれました)。」 筆者は、このお話を伺って大いに腑に落ちました。 ミツバチたちは、まさにサスティナブルな社会を実現している! 亜由美さんは、学生時代から学んできた学問の答えをミツバチ社会に見出していたのでした。 ↑スズメバチが来たぞ! の合図のもと、警備隊がスクラムを組んでいる様子。 ↑なんて美しいハニカム! それぞれの場所が決まっています。 そしてこうも話してくれました。 「ミツバチは私のパートナーです。私の役割は、彼らが棲み良い環境を作り、病害虫から守ることです。棲み良い環境作りのためには、豊富な蜜源も必要ですし、冬の寒さからも守らなければいけません。働いてくれているのはミツバチたちなので、私は私の役割を全うしたいと思うのです。」 ↑亜由美さん手作りの巣箱。 ↑冬はこの洞窟に巣箱を入れてあげます。北海道は越冬が難しいと言われますが、亜由美さんは昨年の冬に試したことで手応えを感じていると言います。 ↑後ろには昆布岳。水色の巣箱は昨年初めて作ったもの。 お話を伺ううちに、筆者には亜由美さんがミツバチに見えてきました ^^; まさにミツバチ社会の一員になろうとしている亜由美さん。 ほんとうに一途です。 ↑夏の洞窟はこんな感じになります。 「私、ミツバチの声を聴きたいんです!!」 なんと!唐突な! 「ミツバチたちが私に何をして欲しいのかが知りたいのです。 ベテラン養蜂家さんの話によると、会話ができる方もいるらしいのです。」 ここまで熱いミツバチ論を聴くと、筆者自身もあながち思い込みでしょ?とは思えなくなりました。 というよりも、亜由美さんならきっとそうなれると思ってしまいます。 いま存在している養蜂家は、約9割が移動養蜂の形をとっています。 亜由美さんのように定地養蜂をされている方はごくわずかです。 「定地で行うには、蜜源確保が重要になります。ですから、里山作りにも取り組み始めました。ハーブ園も作りたいと思っています。 偵察部隊のミツバチが見つけて情報共有された蜜源を自由に採ってきてほしいので、蜜源環境を整えるのは私の役目です。現在、製品として販売している蜂蜜は、季節ごとに蜜源が変わり多種類の密で作られる“百花”なのです。」 ↑自然との共生を共に考えるための様々なワークショップも行ってきました。倒れた白樺の皮を使った作品にもチャレンジしました。 なるほど。 ミツバチのための環境作りとして里山作りにも力を入れているというのは、結果として人間の社会生活にも良い環境を与えていますね。 ミツバチへの関わりからあらゆることが良い方向へ循環していく。 亜由美さんが描く未来に次第に近づいていっているのがわかりました。 ↑こうやっていただいたことがあります。気絶ものの美味しさでした。 ↑初代の友人手作りの遠心分離機。現在、2代目を手配中だそうです。 養蜂家亜由美さんの屋号は ” anmi ” 製品名は “ 888 はちみっつ “ という名前で販売されています。 ↑蜜蝋です。 今後の構想についても伺ってみました。 「蜜蝋を有効活用したいと思っています。ビーラップや蝋燭も作りたいです。現在、ほとんどの養蜂家たちが処分してしまっている蜜蝋を回収したいとも考えています。ミツバチたちは、1gの蜜蝋を作るためにその8~10倍の蜂蜜を使うのです。捨てるなんてもったいないです。ミツバチたちが力一杯働いて作ったものですから、大事にして有効に使わせていただきたいのです。」 亜由美さんの愛溢れるビーワールドに筆者もすっかりはまり込んでしまいました。 ここまで愛されたパートナーのミツバチたちは幸せです。 だからこんなにも “ anmi の888はちみっつ ” は、体にも心にも沁み渡る美味しさなのだ!と納得してしまいました。 ↑商品は豊浦のセブンイレブンさん、しおさい温泉前 たけしま商店さん、洞爺のトイタさんで購入できます。 亜由美さんが選んだミツバチとの道。 そう遠くはない未来に、素敵な笑顔の亜由美さんとミツバチが語る姿が見えた気がしました。 『anmiの888 はちみっつ』 皆様にもぜひ出会ってほしいです。 ※記事の内容は取材時の情報に基づいています。(取材2021年)
Rietty
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確固たる想いを洞爺湖で実現させたい! 〜『湖の膳舎 なかむら』 和食職人 中村 悠佑氏〜
2023.4.25 OPEN以来、ずっと気になっていた方をようやく取材することができました。 今回の主人公は『湖の膳舎 なかむら』代表 中村 悠佑さん 千葉県出身、東京都育ち、1児のパパです。 “ My洞爺湖! “ そんな勘違いをしてしまいそうになる景色。 広い窓いっぱいに洞爺湖が見渡せる贅沢空間にその店舗は存在しています。 和食職人と言うと、中学校を出て直ぐ料理の修行をするようなイメージがありましたが、中村さんは和食職人としては珍しい大卒者です。 「本当は、高校を出たら直ぐに飲食業につきたいと思っていました。早くこの世界に入りたかったのです。けれども、親の説得を受けて大学へ行くことになりました」。 とにかく飲食業が好きだった中村さんは、高校一年生の時からファミリーレストランやイタリアンレストランで、大学に入学してからは居酒屋でアルバイトをする日々でした。 「大学では文学部に所属していました。 実はあるリース会社に就職も内定していました。 でも、居酒屋でアルバイトしていた時に感じた、お客様が料理とお酒を楽しんでいる雰囲気がとても好きだったという気持ちを捨てきれず、どうしても飲食業への道が諦められず、その会社を断ってしまいました」。 そんな中村さんが大学卒業後に選んだのは調理師専門学校への入学でした。 「最初はフレンチ志望でした。 かっこ良く見えたんでしょうね。 授業では、和・洋・中をそれぞれ学ぶのですが、授業の中で試食をした時に体にも舌にも自分は和食に向いていると実感しました」。 専門学校卒業後、中村さんは赤坂や新宿の料亭で働き始めました。 修行時代の始まりです。 「就職して初めて飲食業の本当の厳しさを知りました。 労働環境は劣悪でしたよ笑 勤務時間は07:00~25:00 休みの日も糠床をかき混ぜるために出勤していました。 それでもそれほど辛いとは感じなかった。 修行時代を6年ほど過ごし、独立を決めました」。 29歳の時に独立を決めた中村さんは、東京中野の駅前に店舗を構えました。 30席もある店だったそうです。 “ この人みたいになりたい! と憧れる人はいない “ ときっぱり言い切った中村さん。 どこかで聞いたことがある…と思ったら、大谷選手が言った言葉でした。 「え?彼もそんなことを言っていましたか」。と、ご存知なかったご様子。 「修行時代、味付けはさせてもらえませんでした。味付けは最高の位置にいる人の仕事ですからね。 だから、味覚のトレーニングと料理の独自の研究は常に怠りませんでした。 自分の味付けは自分の店を始めてから学びました」。 なるほど。 以前、ある方から、洗い物をする時に鍋についたものやお客様の皿を舐めて味を覚えたという話を聞いたことがありましたが、やはり料理人の世界は厳しいのですね。 「妻は自身で店を持つことを夢に持ち割烹料理店で修行しており、2人で店をスタートしました。東京のお店は住宅街のひっそりとした場所で始めましたが、そこの住宅街にお住まいのお客様はもちろん、近隣の会社様の接待の需要も有り様々なお客様にお越し頂いておりました。その店は、12年間営んでいましたが、北海道行きを決め2023年1月31日に閉じました」。 きっと惜しまれつつ閉じられたのだと思います。 それが証拠に、その時のお客様が東京から洞爺湖までお食事にいらっしゃると言います。 「中村が洞爺湖に店を出したらしいと聞きつけた中野の割烹料理屋時代のお客様がわざわざ来てくださいました。 本当にありがたいです」。 「ところで、何故、洞爺湖を選ばれたのですか?」 「妻の美佳が北斗市出身なのです。いま娘は3歳なのですが、子育ては自然豊かな北海道で育てたいと予々考えていました。そういう視点で北海道を旅した時に、洞爺湖がとても気に入りました。移住するならここが良いなと。でも、果たしてここで商売が成り立つのか? とても不安でした」。 そんな心配を余所に、オープン直後から多くの客様が足を運ぶ店となりました。 「雑誌の「Poroco」や「Ho」に掲載されたことは大きな宣伝になり、とても感謝しています。 札幌圏の方も来てくださるようになりました。ですのでお陰様で夏は順調でした。でも、冬が心配だった。ところが、今度はインバウンドのお客様もたくさん来てくださるようになりました。 シンガポール・タイ・台湾の方が多いです。 海外のお客様は積極的にGoogleにコメントを入れてくださいますので、それをご覧になったお客様がまた来てくださいます」。 予約専門のお店のため、来店者数に合わせて仕込みができるのも強みのようです(席が空いていれば飛び込みも受け付けてくださるそう)。 「どのお料理も素材の味が最大限に生かされていますが、取引先の生産者さんはどのように選ばれているのですか?」 「洞爺湖に引っ越してきたのは2023年の2月で、店のオープンは4月でしたので、野菜は根菜くらいしか手に入らない時期でした。お米は移住前から財田米を食べ比べ、宮内農園さんのお米を食べて「この美味しいお米なら洞爺でお店が出来る」と確信を持てました。宮内農園の佐々木ご夫妻には他の農家さんをご紹介頂いたり、自分達で道の駅で買って美味しかった農家さんにアポを取ってみたりとオープン前は奔走の毎日でした。出来るだけ地元の食材を利用し、地元の方にこんな美味しい食材が地元に有ったんだ!と再発見していただけるようなお店を作っていきたいです」。 特別なものを使うのではなく、地元の方がよく食べているものを使いたいという考え方は素敵だと思いました。 「地元食材を使いながらも、今まで無かった店、今まであまり食べる機会が無かった料理を、職人技で提供する店になりたいと考えています。 とは言え、いまは未だ試行錯誤の段階です。 地元の方に足を運んでいただくためには地域性も大切にしなければいけませんから」。 「ところで、お二人にお尋ねします。移住して良かったなあ〜と思う瞬間てどんな時ですか?」 「最高の食材がすぐ身近にあることが幸せです。 娘がのびのびと成長していると感じる時もまた移住して良かったと感じます」。と悠佑さん。 「洞爺湖を眺めながら大好きな温泉に入っている時です!笑」と美佳さん。 明るい美佳さんは早くも常連さんの人気者です。 「最後に目指しているスタイルがあればお聞かせいただけますか?」 「洞爺湖ならではの和食の店を確立したいです。この素晴らしい借景の中で、洞爺湖でしか食べられないものを提供したい。そのためにも、もっともっと洞爺湖のことを知りたいですし、洞爺湖の食材のことを研究したいです」。 そう力強く語った中村さんの元に、保育園から帰ってきた娘さんが「ありがとうございます!」と言いながらニコニコと現れました♡ ―湖の膳舎 なかむら 情報― 電話 080-9269-2578 住所 北海道虻田郡洞爺湖町洞爺湖温泉186-85 Instagram https://www.instagram.com/nakamura0321?igsh=MWR1bm9ieTBya28yNw==
Rietty
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