
心の伊達市民 第一号
以前に読んだ『街道をゆく「本郷界隈」』が面白かったので、他にも私の近くのことを書いた「街道をゆく」が無いか図書館で調べてみた。すると『本所深川散歩』が見付かった。「本所深川」は我が家から近いし、今までにもよく行っている場所である。
私は今回のことで初めて知ったが、「本所」とは「両国の北側」で、「深川」とは「両国の南側」のことだそうだ。この年になっても、まだまだ新しく知ることが多い。
「街道をゆく」を読んで、先ず「深川」に行った。深川は現在の江東区にある地名である。都バスで「門前仲町」で降りると、そこは深川である。
門前仲町という地名は「富岡八幡宮」の門前から来ている。
一方の深川というのは人名から来ている。
交差点から木場方面に500メートルほど行った左側に立派な「富岡八幡宮」がある。
ここは5年ほど前に宮司の姉が元宮司だった弟に刺殺されるという、衝撃的な事件で全国的に有名になってしまった。
1627年に創祀された歴史のある神社で、「勧進相撲」と「富くじ」の発祥の地でもある。3年に一度行われる深川祭は有名で、昔の人はその祭を見る為に永代橋から神社まで行列が連なったそうだ。
私はコロナ前の本祭では、同級生のOさんが神輿を担ぐ姿を撮影に行ったことがある。
昔はこの辺りは富岡八幡宮を中心に大変な賑わいで、深川芸者も大勢いた。
彼女達は女だてらに羽織を着て、その気風が「きゃん(侠)」と呼ばれて人気を博したのである。男は「いなせ」、女は「おきゃん」はここから出ている。
「火事と喧嘩は江戸の華」と言われていたように、江戸は火事の多い町だった。そうなると儲かる商売は材木屋である。以下は「街道をゆく」から抜粋した。
【江戸城の増改築が終ると、幕府は「御府内材木商」という名称と特権を与えた。江戸時代の最初の頃は材木屋は日本橋にあったそうだが、あまりに火事が多く、材木屋が日本橋にあったのでは火事を勢いづけてしまうという恐れから、幕府は深川に移転を命じた】。
当時の深川は低湿地帯で住む人も無く、材木商と色町のある場所だったようだ。
【材木商のことは落語「江戸真砂」にも登場する。日光東照宮の普請の際に、無節の良質の檜の在庫を持っていたのは柏木太左衛門だった。柏木は密かに談合したが奈良屋茂左衛門は参加せず、他の者の半値で落札したが奈良屋は1本も檜を持っていなかった。奈良屋のずるさはこの談合が刑事事件に発展することを見込んで落札したことである。落札した後に柏木太左衛門のところに檜を買いに行き、予定通り断わられた】
【そして奉行所に柏木の談合を訴え出たのである。奈良屋は柏木以上に悪党だったのである。柏木太左衛門は家財没収、伊豆新島に島送りとなったのである。
なにやらすさまじい話で、奈良屋ほどでないにせよ、深川の木場の旦那衆は決して「いなせ」や「きゃん」で過ごしたわけではないことが、このことでわかる】。
この本を読んでから、木場公園に行ってみた。
ここも何度も来ている良く知る場所で春には河津桜を見に来たし、家族でドングリを拾いにも来た。広い公園の一角に木場の歴史を残す小さな「貯木場」があり、そこで毎年、「角乗り」が披露される。
昔の材木を扱う職人は水に浮かべた木材の上に乗り、材木を選別したり移動させたりしていたようだ。いまは木場公園になっているが、材木商たちはみんな新木場に移って行った。「深川」を1回で語るのは難しいので、またの機会に公開しようと思っている。
(おまけの話)
江戸時代の庶民の生活を知るには、清澄庭園の向かい側の道路を入った左側にある「深川江戸資料館」に行けば良い。私は今までに3回は行っていると思うが、今回はブログの写真を撮るために、わざわざ行ったのである。
入場料は400円だが、ここは珍しくシニア割引が無い。
館内の展示は実物大の家屋を建てて見せているので、何年も模様替えは無い。
本の中で司馬遼太郎が「深川江戸資料館」のことに付いて書いているが、これが非常に分かり易いのでコピーした。
【深川江戸資料館には江戸時代の深川の町屋のむれが、路地・堀割ごと、いわば界隈ぐるみ構築され再現されており、吹抜けの三階から見れば屋根ぐるみ見えるし、まだ階下におりれば店先に立つこともできる。春米屋とその土蔵、八百屋、船宿から各種の長屋もある。火の見櫓もそびえており、また堀割には猪牙舟もうかんでいる。水茶屋もあれば、屋台も出ており、全て原寸大である】。
色々な商売の店が実物大で作られているが、当時の店はみんな狭いし小さい。
もっと驚くのが庶民が住んでいた長屋で、家族みんなで狭い一間で生活していたらしい。家財道具などろくに無く、今風に言えば「着の身、着のまま」である。
当然であるが、プライバシーなど全く無い。
水道もトイレも室内には無いし、風呂などあるはずもない。外にある井戸から水を汲んでいたようだ。私達の今の生活を思うと、「贅沢し過ぎだー」と感じる「深川江戸資料館」であった。
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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ふらり旅人からのゲストハウス 自由人 小林圭子氏 〜想いと直感のままに『ポンコタン』
今回の主人公は洞爺湖の近くでゲストハウス『ポンコタン』を営む小林圭子さん。 旭川出身の47歳。 洞爺湖に移住する前は名古屋で商売をされていました。 「北海道には30代後半からバイクにテントを積み、 ふらりと旅しに来ていました。」 洞爺湖との出会いは、 2018年に「幸せのパン」の映画の舞台になったところを見てみたくて 青春18きっぷでふらりとやってきたのが初めてでした。 ところで圭子さん。 なんと言うか・・・。 「以前、どこかで会いましたっけ?」 そんな錯覚を起こさせる人です。 あの、バリアフリーな雰囲気は一体どこからくるのだろうか? 探ってみたくなりました。 旭川から札幌へ。 そしていきなりポン!と名古屋へ飛んだ圭子さんが始めたのは、 なんと”バナナ焼き屋“のお店でした。 店の名前は「パピリカ」。 それはアイヌ語で「豊作」という意味です。 バナナ焼き屋をやろうと思った理由は〜。 「小さい頃から食べていたソウルフードだったから」 ただそれだけの理由で、 古くからお菓子文化が発達している(駄菓子の製造所も多い)名古屋で店を出そうとは、 普通はなかなか考えつかない。 でもそれをひょいっと始めてしまうところが圭子さん流。 深くは悩まない。 やりたいからやる。 ただそれだけ。 そんなシンプルさが、度胸を超えた何かを感じます。 パピリカ時代のHPを見つけました。 熊が鮭ならぬバナナを咥えている姿が なんともユニークで忘れないロゴです。 何事もサラッと話す割には材料にはかなりこだわっています。 卵も牛乳も使用していないので(カスタード以外)、 卵アレルギーや牛乳アレルギーの子どもを持つ親御さんも よく買いに来てくれたそうです。 そして白餡はしっかりと手作り。 バナナ焼きと言えば旭川の名物お菓子。 この時お話を伺うまで知りませんでしたが、 旭川のバナナ焼きにもバナナそのものやバナナエッセンスなど、 バナナフレーバーは一切入っていないそうです。 バナナ焼きとは、形からだけ連想するネーミングのようです。 とても美味しそう〜! 食べたかった〜! パピリカはすぐに地元に溶け込み、 8年間営業を続けました。 その時の繋がりは今も続いていると言います。 人懐っこいと言う表現とも違う、 相手に壁を作らせない不思議な力を圭子さんは持っています。 「いろいろなところから転勤してきた人たちが多く住むところでした。 近所の方がよく買いに来てくださっていましたよ。 家賃を払いつつ、 女ひとりが食べるだけの分はなんとか稼げていました。」 「ところで、ポンコタンは小さな村という意味。 パピリカは豊作という意味ですよね? どちらもアイヌ語ですが、なにか特別な意味があるのですか?」 そんな筆者の質問に 圭子さんはまたもやあっさりと答えます。 「いや、なんとなくです。」 まただ…。 やはりこんな調子…笑 筆者はその言葉の背景を知りたい!と質問をしても、 決してはぐらかす訳ではなく、あくまでもサラッと答える。 想いが至極シンプルだからこそ、 きっとその時の直感のまま「なんとなくそうしよ」と 思った通りに動いてしまうのだろうと思います。 しかも、転機にはだいたい誰かが力を貸してくれる。 これはもう人徳です。 気負わず流れに任せるというのは、実は楽そうで楽ではない。 でも圭子さんは素直に誰かの力を借りながら、 とても自然にその技を使ってしまう。 「名古屋の友人がゲストハウスをしていたんです。 あらたに宮古島でゲストハウスを始めるにあたって、私も少し手伝いました。 その友人は度胸があるというかなんというか、 外国人が結構泊まりに来ていたのですが、英語は喋れないんです。 でもなんてことなくやっているのを見て、 私も妙な自信をつけてしまいました。 『そうか、英語ができなくても宿屋はできるんだ』 ってね。」 「その辺りから、ゲストハウスに興味を持つようになりました。 ちょうど、ふらりと洞爺湖へ足を運ぶ機会も増えていたこともあり、 洞爺湖の近くでゲストハウスをやることが ふわっとしたものから現実的になりました。 あ…その前にバナナ焼き屋を畳まないと。」 そう思った時、 店を丸ごと買いたいと申し出てくれた人が現れました。 それは元々はお客様だった友人で、古民家カフェを営んでいる方でした。 バナナ焼き屋営業終了2日後には洞爺湖に移住してしまうというスピーディーさ。 思ったらサラッと行動! その後、1年半をかけて建物をリフォームし、ポンコタンを開業されました。 「待っていてくれているような気がしていました。 洞爺湖はどっしりとしていて迎え入れてくれるような安心感がある湖だと感じています。 移住してすぐは、キャンプ生活をしながらあるホテルでバイトをしていました。 同時に物件探し。 そんな中、即決したのがこの建物でした。 借金も1000万円以上してしまいました。」 この建物は、昔、ある会社の社員寮だったところ。 なので、一部屋一部屋にトイレが付いていました。 さて、ゲストハウス「ポンコタン」は 内装・外装そのほとんどをDIYしています。 もともと建物に興味があったわけでもなかった圭子さんですが、 もの作り好きであったことが功を奏しました。 「必要に迫られた部分もありますが、 バナナ焼き屋時代に建物の内部構造にものすごく関心を持つようになりました。 そもそもは工事関係者への不満に端を発したのですが、 お陰で建築について色々知ることができました。 建物がどんなふうにできているのかを知るために、 分解しながら構造を理解していきました。 コンクリートにネジを入れるにはどうしたらよいか?とかね。」 冒頭に登場した仕切りに描かれた洞爺湖の絵は、名古屋時代の友人が描いてくれたもの。 「名古屋時代の友人たちは変人が多くて(笑) 尋ねてきては色々置いて行ってくれます。」 困ったふりをして、笑いながら話す圭子さんには、 遠くから支えてくれる友の存在に感じる安心感が表れていました。 圭子さんの仲間たちは、 「ポンコタン」のオーナーの とてつもなく自然体なおもしろキャラクターをよくご存知のようです。 「うちね。コンセプトなんてないのよね。」 圭子さん、突然、そうサラッと言った後でこう続けました。 「よく眠れました!って言ってもらえるのが一番嬉しいかな。 旅の途中で快適な時間をここで過ごしてくれたら、 それが一番嬉しい。 それとね。 今年の夏はすごく忙しかったのね。 借金あるからあと10年はやらないといけないけど、 とりあえず持続可能な宿を目指して働き方改革するわ(笑)」 「10年経ったら何するの?」 そんな問いに。 またもやサラッと 「わからないな」 と答える圭子さんでした。 帰り際 「また来て!」 と軽い調子で言われました。 「うん」 と答えてしまいました。 ポンコタンの魅力は この気安い感じなんだろうと思った筆者でした。 決して気負うことなく、 そのまんまの圭子さんが妙な安心感を与えてくれる取材の時間でした。 ゲストハウス ポンコタン 〒049-5721 北海道虻田郡洞爺湖町洞爺湖温泉97 080-6092-4967
Rietty
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Shinji