昨年末に薬研堀不動尊の「蔵の市」に行って、急に思い出したことがある。
それは素敵な旧町名を、味気ない町名に変えてしまったことだった。
昔は「薬研堀」(やげんぼり)と言っていたのを、いまは「東日本橋2」に変えてしまった。

歴史ある町名が消えた理由は、1962年に「住居表示に関する法律」が施行され、「町名」、「字名」、「街区符号」、「住居番号」を表示しなければならなくなったからである。


 「薬研堀不動尊」(東日本橋駅近く)



旧町名は歴史が分かる良い名前だったのに、惜しくも消え去った町名は次のものである。(旧日本橋区)旧町名と現在の町名を下に記す。

「金吹町」・・日本橋室町3、「本革屋町」・・日本橋室町3、「本両替町」・・日本橋本石町1、「安針町」・・日本橋本町1、「呉服町」・・八重洲1、「大工町」・・日本橋2、「鉄炮町」・・日本橋本町3、「通旅籠町」・・小伝馬町、「新乗物町」・・堀留町1、「浪花町」・・人形町2。


「新乗物町」(堀留児童公園辺り)



(旧京橋区)
「五郎兵衛町」・・槙2、「畳町」・・京橋2、「大鋸町」・・京橋1、「南鞘町」・・京橋1、「具足町」・・京橋3、「炭町」・・京橋3、「八官町」・・西銀座8、「弓町」・・銀座2、「新肴町」・・西銀座3、「木挽町」・・歌舞伎座近くの1~8丁目、「大川端町」・・新川。

「畳町」・・1657年の畳町役儀一礼に見え、畳職人の居住に由来している。
まだまだ沢山あるのだが、面白そうな町名だけを書き出した。


 「畳町」(現在の宝町辺り)



旧町名の名残を探しに行こうと思い、中央区観光協会に「なにか旧町名の分かる石碑のようなものは立っていませんか?」と問い合わせた。しかし10日も経つのに、返信が無い。分からないなら、「分からない」と返事が欲しい。

「安針町」・・三浦按針(みうらあんじん)に由来している。三浦按針とはイギリス生まれの航海士、ウイリアム・アダムスの日本名。


「安針町」(日本橋三越向かいを200m入る)



「金吹町」・・1637年の洛中絵図に「両かゑ丁」とあり、近世に通じて変化はなく、1870年に「金吹町」となった。金吹町は「坊目誌」に「凡そ金属を冶工する、これを吹くと言う」とあり、金銀座にちなむ。

「新乗物町」・・承応江戸図に「のり物丁」とあり、寛文新板江戸絵図では「新のりもの丁」となっている。駕籠・輿を製造する者が多かったことに由来し、神田の「元乗物町」に対して新の字を付けた。


「金吹町」(コレド室町テラス)



「木挽町」・・大規模な工事が始まると大勢の木挽職人が必要となり、その者たちが多く住む町であったことからとも、また鋸商人が多かったからとも言われている。

「薬研堀」・・両国橋近くに薬研(漢方薬を粉末にする器具)の形に似た堀があったことから、付近を薬研堀町と名付けた。


「木挽町」(歌舞伎座B1・木挽町広場)


            
「新肴町」・・網を曳いて将軍の観覧に供した漁師たちが、御肴御用を命ぜられ、白魚献上の特権を得た。この漁師たちが、一丁目の街角に網を一張、干しておく風習から生じた。

「鉄砲町」・・御先手組鉄砲足軽の組地にちなむ。御先手組は1686年に置かれ、「弓之者」、「鉄砲之者」と呼ばれていた。


「新肴町」(数寄屋橋交番裏手)「銀座柳の碑」



(おまけの話)・・・町名の由来
現在も辛うじて残った中央区の町名は、次のものである。
「宝町」・・・昭和6年に中沢彦吉の発案により、めでたい名を選んで付けられた。

「八重洲」・・1596年頃、オランダ人通訳のヤン・ヨーステンが内堀沿いに邸地を拝領したことから、この辺りを「ヤヨス河岸」と称し、後に八重洲となった。

「銀座」・・・銀座とは銀貨鋳造所のことで、1612年に銀座を駿府から現在の銀座2丁目に移したことから、俗称で銀座と呼ぶようになった。


 「銀座発祥の地」(銀座通り)



「京橋」・・・東海道の起点である日本橋から京へ上がる最初の橋であったことから、京橋となった。
「湊町」・・・江戸時代に商船が隅田川から上って来て、ここに荷を揚げたり、艀の出入りする港町であったことから湊町となった。

「明石町」・・江戸時代に播州明石の漁師が、この地に移住したことから。
「八丁堀」・・堀割の名称に由来し、寛永年間(1624〜1643年)に造られた堀で、長さが八町(約872m)であることからその名がついた。


 「京橋」(首都高速道路下)



「霊岸島」・・1624年に下総国生実の浄土宗善昌寺の僧である霊岸が、埋め立てて霊岸寺を建立したことによる。
「日本橋本町」・・江戸時代初期に徳川家康が最初に地割を行った地で、江戸の日本橋の中心地域であることから決った。

「茅場町」・・江戸城工事の際に神田橋付近の茅商人をここへ移し、市街を開いた。
「兜町」・・・源義家が奥州征伐の時、ここを通り暴風に出会うや、鎧を沈めて龍神に祈って無事を得た。その帰途に、近くに塚を築き鎧を埋めて神を祀ったという故事から生まれた。


  株屋がお参りする「兜神社」(兜町)


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北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。

コメント

  1. Shinji
    Shinji
    返信

    そう言えば、昔、都電に呉服橋という停留所が日本橋のすぐそばにありました。あのあたりが呉服町だったのでしょう。昔の町名は、ほんと、おもしろいです。

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