
心の伊達市民 第一号
ブログ閉鎖中の話題(2017年8月21日)
「相馬野馬追」という福島県のお祭を知っているだろうか?
最近でこそ有名になったが、私は福島県相馬市で45年以上も前に見たことがある。
当時はまだ今のように観光化されていないで、地元のお祭だった。
武者姿の騎馬が100頭以上も出場し、ご神旗を奪い合う光景は戦国絵巻を目の前で
見ているようで、「戦国時代もかくありなん」という迫力だった。
ある日の新聞だか雑誌に、「大井競馬場で野馬追を行う」と出ているのを見付けた。
「これは撮影に行かなければいけない」とすぐに思った。
大井競馬場に行って驚いた。夏休みということもあるかもしれないが、家族連れの多
さにビックリして「どうしたの?」と思った。
下は乳飲み子から上は小学生までいて、競馬場に対する私の理解を越えた。
良く考えてみたら競馬場というのは、入場料の100円を支払いさえすれば馬券を買わないで一日中いても構わないのである。しかも子供が飽きないように舞台が作られていて、「〇〇レンジャー」らしいヒーローが悪漢と戦っている。
食べ物屋も50軒くらいはあり、家族連れはみんな幸せそうだ。
でもその子供たちが大人になったら、ここへ来て馬券を買うようになるのでは?
子供の内に競馬場に対するアレルギーを除き、将来のお客にしようという競馬場の魂胆が垣間見える。
現在では野馬追も興行になっている部分があり、世界各地で野馬追興行を行っている。
これは富山の「おわら風の盆」などにも見られるが、人気が出るとそれを商売にしようとする人が出て来る。これも仕方のないことかもしれない。
私が福島で見た時は出場している人は殆どが農家の男達だったが、今は興行に出ている男は野馬追が本職ではないかと思う。
昔は農作業に馬を使っていたので、野馬追の祭りではその馬を使った時代もあったようだが、それでは迫力ある騎馬にならない。
そこで少しでも余裕のある農家は、農作業が機械化された後では日本競馬協会から使えなくなった競走馬や、出場できない馬を買い受けて野馬追の為だけに飼育している。
そんな関係から、大井競馬場で野馬追をやるようになったのではないかと私は思っている。だから出場する馬は見事な体形のサラブレッドばかりで、伝統行事なのに日本の馬は出ない。
野馬追は競馬の6レースと7レースの間の時間を使って行われた。
私は撮影が目的なので馬券は買わないが、6レースが終り簡単な式典の後に野馬追が始まった。もし馬券を買って大穴でも当てたら、私のことだからきっと病み付きになる。
本場の相馬野馬追では、最近では騎馬が500騎も出るようだ。
大井競馬場ではたったの7騎で、少し寂しいがエキジビションなので仕方ない。
それでも7騎は「甲冑競馬」と称して、私の目の前を旗竿をなびかせて疾走して行った。
今回の撮影では試しに「流し撮り」をやってみたが、これが難しい。
なにしろ一発勝負なのだから、失敗したらそれで終りである。
今回の写真に付いて、みなさんの評価はどうであろうか?
(おまけの話)
私も女房も福島県出身でもないのに、相馬野馬追には強い愛着がある。
その理由は女房に関係がある。
彼女の父親は大阪出身だが、東京で大きな金属加工業の会社を営んでいた。
本社と営業本部は東京にあったが、製造は福島県が主力工場であった。
義父は福島県南相馬市原町区、浪江町、双葉町の3ヵ所に工場を持っていた。
2011年3月に福島原発の事故があったが、浪江町、双葉町は原発から20キロ圏内、
原町区は25キロ圏内である。
現在でも20キロ圏内は立入禁止、25キロ圏内は屋内待機地区に指定されている。
3工場は全て、その中に入ってしまっていた。
相馬の野馬追を行う場所は相馬市原町区の「雲雀が原」という場所だが、実はその広場に面したところに義父の工場があった。だから私は工場敷地内から野馬追を見たのである。義父は既に亡くなって30年くらい経つが、原発事故を知らないでアチラに行ったのは幸せだったのではないかと想像する。
そんな事情があったので、私は居ても立ってもいられず大井競馬場に駆け付けたのである。
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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今回の主人公は加藤亮子さん。 声楽家としての軌跡を追いました。 お話を伺ったのはグランドピアノが置かれたご自宅でした。 窓辺にはウルトラマンがいました。 棚には亀さんたち。 大きな窓からは空と海と夕陽が見えました。 「ウルトラマンは子供の時から好きで、特にウルトラセブンが好きです。お話が今見ても深いんですよ。怪獣とかも何故地球を攻撃するのか?とか。人間同士の信頼を無くせば勝手に滅んでいく…とかね。」 ふむふむ…。 なるほど…。 「亀は何かゆっくり可愛い。水の中を気持ちよさそうに泳ぐ様子、卵を産むときの様子、陸亀の孤高感、なんとも言えないのですが好きなんです。」 物語のプロローグは音大受験失敗から 小さい頃から音楽好きだった亮子さんが大好きなテレビ番組は、『ミッチと歌おう』(放送1963~1965年)でした。 これは、アメリカNBCの人気ミュージカル・バラエティー番組をNHKで放送したものです。 指揮者のミッチ・ミラー率いる26名の男性コーラスグループで、「クワイ河マーチ」や映画「史上最大の作戦」のテーマソングは日本でも大ヒットをしたので、筆者も覚えています。 そしてもう一つの番組は、『アンディウィリアムスショー NHK』。 便利な時代です。 オンデマンドで視聴することができました。 今観ると、とってもオシャレで温かくて面白くてカッコいい。 https://www.youtube.com/watch?v=mFPID7igH1c なるほど〜。 ストンと来ました。 なんとなくオシャレでカッコいい亮子さんのルーツがわかった気がしました。 さて、小学生だった亮子さんの元にある日ピアノがやってきました。 なんと、酔った勢いでお父様がピアノを買ってきたと言うのですから驚きます。 そしてお母様の勧めでピアノを習い出したのでした。 音楽家への道の第一歩でした。 ピアノ科を目指していた頃 「ピアノは高校三年生まで習っていました。音大を目指していたのですが残念ながら落ちてしまいました。ピアノは決して嫌いではなかったのですが、人前で弾くのは本当に苦手でした。本番になるとアガってしまうんです。」 通っていたピアノの先生は、受験に失敗した亮子さんに遠藤道子先生を紹介しました。 「当時、遠藤先生は札幌ショパン協会会長をなさっていて、ピアノの先生としては3本の指に入る怖い方と有名でした。だから、受験のためとは言えもう怖くて怖くて…正直嫌々でした。」 通い出してみれば案の定怒られてばかり。 「私からしたら『あの人上手いな〜』と思う人でさえ、ものすごく怒られているのですから、本当に怖い…。」 そしてとうとう。 「あなたみたいな生徒は初めてです!!!」 と、言われてしまいます。 今までの生徒さんは、直線的にどんどん上手になっていくというのに、亮子さんの場合は波がありすぎる曲線だったらしく、とうとう先生は呆れてしまったのでした。 ところがその怖い先生は、何故かとても亮子さんを可愛がってくれました。 しかも亮子さん本人にはまったく自覚がない可愛がり方。 それというのも、他の生徒さんには見せないプライベートな一面を亮子さんには見せていたのだそうです。 それは、他の仲間が「信じられない!」と驚愕するエピソードでした。 きっと、怖い先生に対してもガードや壁を作らない、お茶目で素直でカッコつけない亮子さんが愉快で面白かったのだろうと、筆者は勝手に想像しています。 「けれどもレッスンはとにかく容赦無くて…。初めから『あなたはピアノが下手!基礎からやり直し!!』と言われ、ソルフェーズの指の基礎練習の猛特訓を受けていました。ところがある日、その勉強中にピアノではなく声を褒められたのです。なんと、『あなた、声は出るわね!声楽科に転科しなさい!』と勧められてしまったのです。」 ついに、亮子さんにとっての転機がやってきました。 声楽家としての門を叩くことになったのです。 声楽科への転向 短大ではカナダ人の先生に声楽を学び卒業をした亮子さん。 なぜか小学校教員の道を選びます。 「10年間、教員として勤めました。子どもたちから『先生っていつも歌ってるね♪』と言われていました。自覚はなかったんですけどね。そんなこんなで、あんなに頑張って学んだ声楽から20年くらいブランクがあり、気づいたら40歳を過ぎていました。」 声楽から遠ざかっていた亮子さんに再びスイッチを入れたのは、娘さんのピアノの先生でした。 それはちょっぴりお調子者(失礼…)の素質が見えるエピソードでして…。 ピアノではあんなに人前でアガってしまうのに、なぜが歌ではアガらないとい亮子さん。 「ちょっと歌ってみたら?」 とさり気なく誘われてイタリア歌曲をいきなり歌ってしまいました。 「超楽しい! まだイケるかも♪」 スイッチオン! そしてこんなことも。 誘われて、小さな教会でTUBEの曲をノリノリで歌いました。 「めっちゃ楽しい!!」 そう。 久しぶりに人前で歌ったことが着火剤となってしまったのです。 これらがきっかけで声楽家としての火が再燃。 やっぱり人の前で歌うことが本当に好きなのだと実感した瞬間でした。 そうこうするうちに自宅で歌を教える様になりました。 「声楽を学んだとは言え、20年以上もブランクがある中で、ただ歌うのが好きというだけで人様に教えるのは正直不安でいっぱいでした。自分はまだまだ下手だと思っていましたし指導法にも自信がありませんでした。もう一度学び直したい!と、教室を探したのですがなかなか見つからず…。諦めかけたころ、ようやく東園己先生と出会いました。55歳になっていました。」 歌は筋肉です!! ようやく素晴らしい先生と出会い、レッスンをしていただけることになり、いよいよ初レッスンという日、なんと亮子さんは雪まだ残る早春の道で事故を起こしました。 「中山峠へ向かう途中、車がドリフトして路外に飛び出してしまったんです。ところが、なんと細い木2本に支えられ、体は無傷でした。そして偶然通りかかった方にドアを開けていただき助かったのです。木に支えられたこと、偶然通りかかった方が助けてくれたこと、体も無傷だったことなど、運の良さを感じました。」 ハプニングからスタートしたレッスンでしたが、東先生との出会いも運が良かったとしか言えないエピソードがありました。 「最初のレッスンで言われたんです。『あなたは癖で歌っている』と。おまけに『その癖を直すには2〜3年は掛かる』とも言われました。そして、歌いやすくなるための “体の使い方” も徹底的に直されました。先生のレッスンはとてもわかりやすく、学生時代には理解できなかったことが30年経ってストンと腑に落ちました。もう必死で学びました。するとその効果あってか、直すのに2〜3年はかかると言われた歌い方の癖が1年で『直った』と言われました。嬉しかったです。」 体の使い方?とキョトンと驚く筆者に。 「歌は筋肉よ!!」と答えた亮子さんは、おもむろに筋トレ式発声法の仕方の一つを教えてくれました。 今年でレッスンに通い始めて14年になりますが、自分の発声に少しずつ自信が持てる様になった10年目の頃、亮子さんはある目標設定をしました。 それは〜。 「トスカの『歌に生き恋に生き』を歌いたい!!」 でした。 それにはB5(シ)の音が出せる様にならなければいけませんでした。 そしてそれは無謀とも言える挑戦でした。 ところが奇跡は起きました。 65歳になった亮子さんに奇跡の日がやってきました。 B5(シ)の音が出たのです。 それまで何度も口にしていた「私って怠け者だから。お尻に火がつかないとやらないの」という台詞の意味がわかりました。 亀さんのようにのんびりと構えながら。 本当の本気が出るまで力をためるタイプ。 まるでウルトラセブンがジュワッと変身する様に。 力むことなく。 カッコよく。 おしゃれ。 だから女性から見てもちろん、男性から見てもカッコよく映るのだと思います。 最後に次の目標を伺ってみました。 「二つあります。一つは死ぬまでにオペラのアリアをできるだけたくさん歌いたいということです。もう一つは完璧だとは思わないで常に高みを目指すということ。どちらも絶対に諦めたくないです。こんなもんだと思ったらだめだと思っているんです。」 いざという時にウルトラセブンになれるように。 亀の様に辛抱強く。 梅番茶で喉ケアをしながら。 今日も亮子さんは歌っています。 「声をかけていただければ、たとえ、たった一人のためでも、どこにでも行きますよ〜!」 声楽家 加藤亮子 情報 洞爺湖芸術館FB https://www.facebook.com/toyakomuseumofart 加藤亮子 FB https://www.facebook.com/ryoko.kato.9699 Instagram
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Shinji