最近、読んだ本に「越えていく人」というのがある。
作者は神里雄大という人で、1982年にペルーのリマで生まれた。
しかしわずか半年で日本に来て、神奈川県で育った。

今でもペルーの国籍を持っていて日本との二重国籍であるが、日本語しか話せない。そんな男の南米5ヶ国の日系人を訪ねた旅の報告であり、南米の日系人が自分を「日本人」と思っているかどうかの質問が面白い。



『越えていく人』★★★


私がこの本に興味を持ったのは、私のオヤジが若い頃に南米のブラジルに住んでいたからである。今になって思えば、「もっとオヤジからブラジルの時代の話を聞いておけば良かった」と残念である。

以前にも書いたが、オヤジはサンパウロで一時的に事業に成功したが、それを全て博打で失った。日本へ戻る金を母から送ってもらったが、それも博打で失った。
最後は父の知り合いの船会社の重役に頼んで、着払いで横浜港に戻って来たという、とんでもない男だった。



1月2日(土)/午後8時(NEW YORKのLive Cameraから)


誰でも日本に住んでいれば、自分が「日本人である」と意識することはあまり無い。団体で海外旅行に行っても、添乗員にお任せなので日本人を意識しないでも旅行が出来る。

私が最初に自分を日本人と意識したのは、22歳の時に「ニューヨーク世界博覧会」の劇場付き日本レストランで働いた時だ。博覧会に来るアメリカ人は、日本館レストランに日本を求めたやって来る。



2月15日(月)/午後11時(人出も少なくなっている)


私達はニューヨーク郊外のクイーンズという地区に、男女に分かれて1部屋に3人で住んだ。まだ渡航が自由化されていない時代だったので、アメリカに日系人以外の日本人は少なかった。

ある時、レストランのお客として知り合ったアメリカ人に家庭に呼ばれたことがあったが、その時に彼から寄せ書きのある日章旗を渡されたことがある。
彼は戦争中に南の島でそれを見付けて、戦利品として持ち帰ったのだそうだ。この時ほど、自分が「日本人だ」と感じたことは無い。


3月28日(日)/午後7時30分(週末は人出も増える)


その次は娘がスイスに短期留学するために、下見に家族でスイスに行った時だった。昔のことだが私の希望もあり、娘をスイスに留学させて、フランス語をマスターさせようと考えた。

日本のスイス大使館に問い合わせて、数校の留学先の学校を紹介してもらった。
そして手紙で4つの学校に訪問を知らせた。希望の学校では「東洋人は始めてだ。まして日本人が学校に来たことは初めてだ」と言われた。彼らは興味津々だったが、この時も自分達が日本人だと自覚した。


4月3日(土)/午後9時(ほとんどの人がマスクをしている)


その次は台湾人のカメラマンのKさんの誘いで、カナダのオタワに2週間ばかり滞在した時だった。
彼はカナダのグリーンカードを取得するために、1年の半分以上をオタワで暮らしていた。その時に私は女房と2人でオタワに行ったのである。

滞在中は毎日のようにオタワ在住の台湾人に誘われて、ゴルフをしたり、食事をしたりした。その時の会話は全て日本語だった。カナダで台湾人社会に入り込み、日本語で過ごした時も「私は日本人だ」と気付かされたのである。



5月23日(日)/午後9時30分(マスクをしている人は少ない)


最後はベトナムのホーチミン市で3ヵ月を過ごした時だった。
私の関係している会社の日本語学校で、3ヵ月間、日本語の先生をしたことがある。ベトナムの日本語学校の先生はベトナムの大学の日本語学科を卒業した人が多い。

でも誰も日本に行ったことがない。そんな中に日本人の私が来たので、ネイティブの日本語を聞きたがった。あの時も「私は日本人だ」と、強く思ったのである。



5月31日(月)/午後9時(雨が降っている)


(おまけの話)
オヤジはブラジルに住んでいたので、ポルトガル語を話すことが出来た。
でも日本でポルトガル語を話すチャンスは無いので、私はオヤジのポルトガル語を聞いたことは無い。

戦後の混乱期には、どこの家庭でも食糧難だった。
ある時、オヤジが進駐軍の若い兵隊を2人、家に連れて来た。
英語は出来ないオヤジがどうやって連れて来たのか、今でも疑問のままである。



6月3日(木)/午後8時30分(マスクをしている人は少ない)


その若い2人の兵隊は我が家に遊びに来たのではない。
米軍基地から誤魔化して持って来たと思われる、コンビーフの缶詰を持って来たのだった。私のオヤジはそのコンビーフを、その兵隊から買い取っていたのである。

どうやって言葉の分からない日本人とアメリカ人が、そんな難しい商談を成立させたのか、今でも疑問のママである。そして、その後も何回かは彼らからコンビーフを買っていた。



6月5日(土)/午前2時15分(誰もマスクをしていない)


我が家の向かいの家のAさんの長男は、府中の米軍基地でコックをしていた。
基地に働きに行く時は大きな、いわゆる「土方弁当」を持って行き、帰りにはそれに誤魔化したハムを詰めて持ち出して来た。それを我が家で買い取って、私達はそれを食べて育った。だから私の子供の頃の体は、米軍から誤魔化した肉で作られていたのである。

ニューヨーク時代もそうだし、子供の頃もそうだったが、「なんで私はアメリカ人に生まれなかったのか!」と、とても残念に思っていた。



6月5日(土)/午前7時30分


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北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。

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