
心の伊達市民 第一号
今とむかし 江戸と東京(3)
「今とむかし 江戸と東京」の第3回目である。
2回目の「隅田川水神の森真先」に行った時は、Google Mapで酷い目に遭った。
そこで今回は慎重を期して、アナログで行こうと決めた。
しかし行く場所は全て知ったところばかりで、地図など無くても問題の無い場所だった。

「両国回向院元柳橋」 似ているのは隅田川だけ。
今回の計画では「芝愛宕山」、「増上寺塔赤屋根」、「神田紺屋町」、「日本橋江戸橋」、「両国回向院元柳橋」、「上野清水堂不忍池」、「湯しま天神坂上展望」、「日本橋雪晴」の8ヵ所に行った。
この全ての場所は知っているので、目をつぶっては行けないが、Googoleのナビは不要である。
広重がどこから描いたかは借りた本に地図が出ているので、それをプリントして持参した。

「湯しま天神坂上展望」 マンションが邪魔で不忍池は見えない。
最初は「両国回向院元柳橋」に行った。大江戸線で「両国駅」で降りて、隅田川へ向かって歩く。
鼠小僧の墓のある回向院の前を通り過ぎれば、もう隅田川と両国橋である。
広重の絵は両国橋の手前から、昔は薬屋の集まっていた薬研堀や花街の柳橋を描いている。
そして気が付いた。少し前に「両国橋大川ばた」の写真を撮りに来た時の、橋の反対側だった。
どうも落ち着きがないから、こういうことになる。

「上野清水堂不忍池」 同じ角度からでは松の輪は見えない。
次は大江戸線に乗って「上野御徒町駅」で降りて、湯島天神に行った。
今は七五三のシーズンなのか、小さな子供を連れた親がいる。
その次は不忍池を横切って、上野公園の石段を登ってすぐの「清水堂」である。
名物は「月の松」であるが、浮世絵の確度からでは松の輪は見えないはずだ。
広重は浮世絵にするために、かなりデフォルメをしていると分った。

「芝愛宕山」 なぜ広重は出世の石段を描かなかったのか?
翌日に神田に行って「神田紺屋町」を探したが、浮世絵とのあまりの違いに写真を撮る気にもならない。
神田から日本橋はそんなに遠くないので、ブラブラと歩いて行った。
「日本橋雪晴」には2本の橋が描かれているが、ネットで調べた解説では「実測江戸図で確認すると、実際には2本の橋をこの角度から同時に捉えることは出来ない。全体のバランスをとるためにデフォルメされている」とあった。最後の「日本橋江戸橋」は高速道路が邪魔で、なんだか分からなかった。

「増上寺塔赤屋根」 この辺りに上から見下ろす場所はない。
ここまで来るのに8回も費やして、24景を写真に収めた。
その中でわずかに広重の絵に近かったのは、「浅草金龍山」、「亀戸天神境内」、「上野清水堂不忍池」の3ヶ所だけだった。これ等に共通しているのは「お寺」、「神社」、「お堂」などのように、乱開発がされず昔の面影を残して来られた歴史的な建物だからである。

「神田紺屋町」 現在も紺屋町の地名が残っていた。
今回で3回目の「江戸百景」だが、浮世絵に描かれた光景と現在があまりに違い幻滅したので、もう続ける元気が無くなった。そこで今回で「二十四景」だが、これで打ち止めとする。
「江戸百景」が描かれたのは1856~58年なので、今から160年以上も前である。
では今から160年後の人間が、今の時代の東京の写真を見たらどう感じるだろうか?
コンクリートで作られた構造物ばかりなので、何も変わっていないのだろうか?

「日本橋雪晴」 日本橋の高速道の撤去計画がある。
(おまけの話)
湯島天神を出て上野公園に向かった。
途中で不忍池の横を通ったらボート場が営業はしいているようだが、池には2艘しかボートが出ていない。
そこで私は久し振りに、子供に戻ってボートに乗ってみようと思ったのである。
ボートは3種類あり、普通のボート、屋根付き足漕ぎボート、そしてスワン型足漕ぎボートがあった。

「日本橋江戸橋」 日本橋川に林立する橋脚が目障りだ。
私は一番高いスワン型に乗ることにしたら、料金は30分で700円だった。
1000円札を出したら、『200円はありませんか?』と聞かれたので、小銭入れを開けてみたら500円玉と100円玉が何枚かあったので700円を出した。
その時になんと100円を落としてしまった。
落ちた100円玉はコロコロと転がって行き、ウッドデッキの板と板の隙間から池に落ちて行った。
1000円でお釣りをもらえばこんなことにならなかったと、後悔しても遅かった。

不忍池のボート場(スワンボートの上から)
スワンボートに乗って池に漕ぎ出したが、狭い池なのですぐに端に着いてしまう。
仕方ないので池の真ん中でボートを止めて、しばらく湖面を通り過ぎて行く風に身を任せていた。
爽やかな風が体を冷やしてくれる。でもやることがない。
15分くらいで飽きてしまった。ボートはやはりカップルか、家族でないと間が持てない。
我慢したが20分が限度で、それでボートを返して清水堂に向かったのである。

スワンボートの隙間から見る弁天堂。
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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確固たる想いを洞爺湖で実現させたい! 〜『湖の膳舎 なかむら』 和食職人 中村 悠佑氏〜
2023.4.25 OPEN以来、ずっと気になっていた方をようやく取材することができました。 今回の主人公は『湖の膳舎 なかむら』代表 中村 悠佑さん 千葉県出身、東京都育ち、1児のパパです。 “ My洞爺湖! “ そんな勘違いをしてしまいそうになる景色。 広い窓いっぱいに洞爺湖が見渡せる贅沢空間にその店舗は存在しています。 和食職人と言うと、中学校を出て直ぐ料理の修行をするようなイメージがありましたが、中村さんは和食職人としては珍しい大卒者です。 「本当は、高校を出たら直ぐに飲食業につきたいと思っていました。早くこの世界に入りたかったのです。けれども、親の説得を受けて大学へ行くことになりました」。 とにかく飲食業が好きだった中村さんは、高校一年生の時からファミリーレストランやイタリアンレストランで、大学に入学してからは居酒屋でアルバイトをする日々でした。 「大学では文学部に所属していました。 実はあるリース会社に就職も内定していました。 でも、居酒屋でアルバイトしていた時に感じた、お客様が料理とお酒を楽しんでいる雰囲気がとても好きだったという気持ちを捨てきれず、どうしても飲食業への道が諦められず、その会社を断ってしまいました」。 そんな中村さんが大学卒業後に選んだのは調理師専門学校への入学でした。 「最初はフレンチ志望でした。 かっこ良く見えたんでしょうね。 授業では、和・洋・中をそれぞれ学ぶのですが、授業の中で試食をした時に体にも舌にも自分は和食に向いていると実感しました」。 専門学校卒業後、中村さんは赤坂や新宿の料亭で働き始めました。 修行時代の始まりです。 「就職して初めて飲食業の本当の厳しさを知りました。 労働環境は劣悪でしたよ笑 勤務時間は07:00~25:00 休みの日も糠床をかき混ぜるために出勤していました。 それでもそれほど辛いとは感じなかった。 修行時代を6年ほど過ごし、独立を決めました」。 29歳の時に独立を決めた中村さんは、東京中野の駅前に店舗を構えました。 30席もある店だったそうです。 “ この人みたいになりたい! と憧れる人はいない “ ときっぱり言い切った中村さん。 どこかで聞いたことがある…と思ったら、大谷選手が言った言葉でした。 「え?彼もそんなことを言っていましたか」。と、ご存知なかったご様子。 「修行時代、味付けはさせてもらえませんでした。味付けは最高の位置にいる人の仕事ですからね。 だから、味覚のトレーニングと料理の独自の研究は常に怠りませんでした。 自分の味付けは自分の店を始めてから学びました」。 なるほど。 以前、ある方から、洗い物をする時に鍋についたものやお客様の皿を舐めて味を覚えたという話を聞いたことがありましたが、やはり料理人の世界は厳しいのですね。 「妻は自身で店を持つことを夢に持ち割烹料理店で修行しており、2人で店をスタートしました。東京のお店は住宅街のひっそりとした場所で始めましたが、そこの住宅街にお住まいのお客様はもちろん、近隣の会社様の接待の需要も有り様々なお客様にお越し頂いておりました。その店は、12年間営んでいましたが、北海道行きを決め2023年1月31日に閉じました」。 きっと惜しまれつつ閉じられたのだと思います。 それが証拠に、その時のお客様が東京から洞爺湖までお食事にいらっしゃると言います。 「中村が洞爺湖に店を出したらしいと聞きつけた中野の割烹料理屋時代のお客様がわざわざ来てくださいました。 本当にありがたいです」。 「ところで、何故、洞爺湖を選ばれたのですか?」 「妻の美佳が北斗市出身なのです。いま娘は3歳なのですが、子育ては自然豊かな北海道で育てたいと予々考えていました。そういう視点で北海道を旅した時に、洞爺湖がとても気に入りました。移住するならここが良いなと。でも、果たしてここで商売が成り立つのか? とても不安でした」。 そんな心配を余所に、オープン直後から多くの客様が足を運ぶ店となりました。 「雑誌の「Poroco」や「Ho」に掲載されたことは大きな宣伝になり、とても感謝しています。 札幌圏の方も来てくださるようになりました。ですのでお陰様で夏は順調でした。でも、冬が心配だった。ところが、今度はインバウンドのお客様もたくさん来てくださるようになりました。 シンガポール・タイ・台湾の方が多いです。 海外のお客様は積極的にGoogleにコメントを入れてくださいますので、それをご覧になったお客様がまた来てくださいます」。 予約専門のお店のため、来店者数に合わせて仕込みができるのも強みのようです(席が空いていれば飛び込みも受け付けてくださるそう)。 「どのお料理も素材の味が最大限に生かされていますが、取引先の生産者さんはどのように選ばれているのですか?」 「洞爺湖に引っ越してきたのは2023年の2月で、店のオープンは4月でしたので、野菜は根菜くらいしか手に入らない時期でした。お米は移住前から財田米を食べ比べ、宮内農園さんのお米を食べて「この美味しいお米なら洞爺でお店が出来る」と確信を持てました。宮内農園の佐々木ご夫妻には他の農家さんをご紹介頂いたり、自分達で道の駅で買って美味しかった農家さんにアポを取ってみたりとオープン前は奔走の毎日でした。出来るだけ地元の食材を利用し、地元の方にこんな美味しい食材が地元に有ったんだ!と再発見していただけるようなお店を作っていきたいです」。 特別なものを使うのではなく、地元の方がよく食べているものを使いたいという考え方は素敵だと思いました。 「地元食材を使いながらも、今まで無かった店、今まであまり食べる機会が無かった料理を、職人技で提供する店になりたいと考えています。 とは言え、いまは未だ試行錯誤の段階です。 地元の方に足を運んでいただくためには地域性も大切にしなければいけませんから」。 「ところで、お二人にお尋ねします。移住して良かったなあ〜と思う瞬間てどんな時ですか?」 「最高の食材がすぐ身近にあることが幸せです。 娘がのびのびと成長していると感じる時もまた移住して良かったと感じます」。と悠佑さん。 「洞爺湖を眺めながら大好きな温泉に入っている時です!笑」と美佳さん。 明るい美佳さんは早くも常連さんの人気者です。 「最後に目指しているスタイルがあればお聞かせいただけますか?」 「洞爺湖ならではの和食の店を確立したいです。この素晴らしい借景の中で、洞爺湖でしか食べられないものを提供したい。そのためにも、もっともっと洞爺湖のことを知りたいですし、洞爺湖の食材のことを研究したいです」。 そう力強く語った中村さんの元に、保育園から帰ってきた娘さんが「ありがとうございます!」と言いながらニコニコと現れました♡ ―湖の膳舎 なかむら 情報― 電話 080-9269-2578 住所 北海道虻田郡洞爺湖町洞爺湖温泉186-85 Instagram https://www.instagram.com/nakamura0321?igsh=MWR1bm9ieTBya28yNw==
Rietty
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