
心の伊達市民 第一号
1月からNHKの日曜日夜の放送の、大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺」が始まった。私は今までも大河ドラマは見ていない。
毎週見るのは面倒だし、話がなかなか進まないので気短かの私には合わないのである。
ところがこの話の舞台に中央区が登場するとあって、中央区は色々な企画をしているようだ。女房も「面白いから、見なさいよ!」と言うので、2回目を見た。
しかし年を取って耳が遠くなったこともあるし、俳優の言葉がハッキリとは聞き取れない。・・・というわけで、私は愛宕山の上にある「NHK放送博物館」に行って来た。
まだ元気な時は愛宕神社の「出世の石段」を歩いて登って行ったが、もう今は怖いので神社より先にあるエレベーターに乗る。現在はNHK放送博物館では「べらぼう」の特別企画をしていて、1階と4階に展示がある。
ドラマの舞台は台東区と中央区で、両区とも蔦屋重三郎(1750~97)と江戸文化について知って欲しいと、ゆかりの地はPRに力を入れている。
これから1年を掛けてドラマは進むが、私は面倒だし1年も待てないので本を読むことにした。
粗筋は次のようである。『江戸の出版王とも呼ばれる蔦重は、江戸郊外の新吉原で生まれた。22歳のときに吉原大門前で書店「耕書堂」を始め、貸本業から書籍編集・出版業に乗り出す。大田南畝や山東京伝ら文化人と交流を深め、喜多川歌麿や東洲斎写楽といった浮世絵師を世に送り出した』。
NHK放送博物館に来るのは、今回で4回目くらいかもしれない。
展示が少しずつ入れ替わるので新しい発見もあるし、テレビの歴史などを見ると懐かしくなる。「愛宕山版画展」という部屋があった。
そこには多くの浮世絵が飾られていて、愛宕山が昔から愛されていたのが分かる。
評判の「出世の石段」も描かれているし、昔は今のように障害物が無かったので愛宕山からは海が見えていた。愛宕山の高さは25.7メートルであるが、花見などで大勢の江戸庶民が遊びに来たようだ。自然の山としては、東京23区内で一番高い山である。
博物館は1階から4階まであり、色々な経験が出来る。
私はパネル表示や文字説明は面倒だし、何度も来ているのでパスをする。
放送開始当初の白黒画面も懐かしい。昔のラジオや、初期のテレビなども展示してある。
昔のテレビは画面の前に扉があった。無い場合は、厚手のカーテンのようなものがあったのを覚えている。カメラや撮影機材も大きくゴツイ。そんな歴史の続きでいまがある。
我が家にテレビが来たのは、割合に早く私が中学生の頃だったと思う。
オヤジが新しもの好きのせいでもあった。
おぼろげに覚えているのだが、テレビのメーカーは「Sharp」だったような気がする。
プロレスが大流行りの時代で、プロレス放送のある日は縁側のガラス戸を外し、近所の人達も庭から見ていた。駅前には街頭テレビがあった時代である。
実際の放送もどきを体験できる部屋もある。
背景が緑の場所に立ち緑の毛布を渡されて、それで腰のあたりを覆うと腰が消えてしまう。天気予報の場所では棒の先に丸い球の付いたものを渡されて、それで画面をさすと気象予報士になれる。
それを目の前のテレビ画面で見ることが出来る仕掛けになっている。
NHK放送博物館は、けっこう楽しめる。
(おまけの話)
NHK放送博物館と地続きで「愛宕神社」がある。
以前は愛宕神社の「出世の石段」から登って行ったが、今回はエレベーターで上まで行った。だからいきなり「出世」である。神社でお参りしてから、下から登ったことにして写真を載せる。
現在はお隣の虎ノ門ヒルズからも、歩道橋で愛宕神社に繋がっているようになった。
この日は平日の午前中だったが、出世の石段を登る人は多い。
ほとんどが観光客のようで、態度から見ると初めて来た人のようだ。
「出世の石段」というものを愛宕神社の公式ページにある、「愛宕神社トリビア」で見てみた。
『時は寛永11年、江戸三代将軍、家光公が将軍家の菩提寺である芝の増上寺にご参詣のお帰りに、愛宕神社の下を通りました。折しも春、愛宕神社には源平の梅が満開、家光公はその梅を目にされ、「誰か馬にてあおの梅を取って参れ」と命ぜられました・・』
『しかしこの愛宕山の石段はとても急勾配。歩いて上り下りするのすら、ちょっと勇気が必要なのに、馬でこの石段を上って梅を取って来ることなど、 とても出来そうにありません。下手をすれば、よくて重症、悪ければ命を落としそう。家臣たちはみな一様に下を向いております・・・』
『家光公はみるみる機嫌が悪くなり、もう少したてば、怒りバクハツという時に、その石段をパカッ、パカッと上り始めた者がおりました。家光公、その者の顔に見覚えがありません。「あの者は誰だ」。近習の臣に知る者はありません。「おそれながら」。「おう」。「あの者は四国丸亀藩の家臣で、曲垣平九郎と申すものでございます」。
「そうか、この太平の世に馬術の稽古怠りなきこと、まことにあっぱれである」。平九郎は見事、山上の梅を手折り、馬にて石段を上り下りし、家光公に梅を献上しました・・・』。
『この故事にちなみ、愛宕神社正面の「男坂」を「出世の石段」と呼び、毎日多くの方が、この男坂の出世の石段を登って神社にお参りにみえております』。
下から石段を見ていると、次々と登って行く人たちがいるのが見える。
坂の途中の横から見ると、その急な勾配がよく分かる。頂上から下を見ると、引き込まれそうな感じがする。私の過去の経験からすると、上りは良いが、下りは怖い。もし転んだら、途中では止まらず下まで行って死ぬだろう。
頂上の神社の左手には枯れそうな「将軍梅」の木があり、それが家光公の所望した梅の木だそうだが、しかし石段の下からでは見えないがなー。
数年前に神社のお祭りで石段を神輿が上るのを見たが、見ている私の方が怖かった。
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。
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確固たる想いを洞爺湖で実現させたい! 〜『湖の膳舎 なかむら』 和食職人 中村 悠佑氏〜
2023.4.25 OPEN以来、ずっと気になっていた方をようやく取材することができました。 今回の主人公は『湖の膳舎 なかむら』代表 中村 悠佑さん 千葉県出身、東京都育ち、1児のパパです。 “ My洞爺湖! “ そんな勘違いをしてしまいそうになる景色。 広い窓いっぱいに洞爺湖が見渡せる贅沢空間にその店舗は存在しています。 和食職人と言うと、中学校を出て直ぐ料理の修行をするようなイメージがありましたが、中村さんは和食職人としては珍しい大卒者です。 「本当は、高校を出たら直ぐに飲食業につきたいと思っていました。早くこの世界に入りたかったのです。けれども、親の説得を受けて大学へ行くことになりました」。 とにかく飲食業が好きだった中村さんは、高校一年生の時からファミリーレストランやイタリアンレストランで、大学に入学してからは居酒屋でアルバイトをする日々でした。 「大学では文学部に所属していました。 実はあるリース会社に就職も内定していました。 でも、居酒屋でアルバイトしていた時に感じた、お客様が料理とお酒を楽しんでいる雰囲気がとても好きだったという気持ちを捨てきれず、どうしても飲食業への道が諦められず、その会社を断ってしまいました」。 そんな中村さんが大学卒業後に選んだのは調理師専門学校への入学でした。 「最初はフレンチ志望でした。 かっこ良く見えたんでしょうね。 授業では、和・洋・中をそれぞれ学ぶのですが、授業の中で試食をした時に体にも舌にも自分は和食に向いていると実感しました」。 専門学校卒業後、中村さんは赤坂や新宿の料亭で働き始めました。 修行時代の始まりです。 「就職して初めて飲食業の本当の厳しさを知りました。 労働環境は劣悪でしたよ笑 勤務時間は07:00~25:00 休みの日も糠床をかき混ぜるために出勤していました。 それでもそれほど辛いとは感じなかった。 修行時代を6年ほど過ごし、独立を決めました」。 29歳の時に独立を決めた中村さんは、東京中野の駅前に店舗を構えました。 30席もある店だったそうです。 “ この人みたいになりたい! と憧れる人はいない “ ときっぱり言い切った中村さん。 どこかで聞いたことがある…と思ったら、大谷選手が言った言葉でした。 「え?彼もそんなことを言っていましたか」。と、ご存知なかったご様子。 「修行時代、味付けはさせてもらえませんでした。味付けは最高の位置にいる人の仕事ですからね。 だから、味覚のトレーニングと料理の独自の研究は常に怠りませんでした。 自分の味付けは自分の店を始めてから学びました」。 なるほど。 以前、ある方から、洗い物をする時に鍋についたものやお客様の皿を舐めて味を覚えたという話を聞いたことがありましたが、やはり料理人の世界は厳しいのですね。 「妻は自身で店を持つことを夢に持ち割烹料理店で修行しており、2人で店をスタートしました。東京のお店は住宅街のひっそりとした場所で始めましたが、そこの住宅街にお住まいのお客様はもちろん、近隣の会社様の接待の需要も有り様々なお客様にお越し頂いておりました。その店は、12年間営んでいましたが、北海道行きを決め2023年1月31日に閉じました」。 きっと惜しまれつつ閉じられたのだと思います。 それが証拠に、その時のお客様が東京から洞爺湖までお食事にいらっしゃると言います。 「中村が洞爺湖に店を出したらしいと聞きつけた中野の割烹料理屋時代のお客様がわざわざ来てくださいました。 本当にありがたいです」。 「ところで、何故、洞爺湖を選ばれたのですか?」 「妻の美佳が北斗市出身なのです。いま娘は3歳なのですが、子育ては自然豊かな北海道で育てたいと予々考えていました。そういう視点で北海道を旅した時に、洞爺湖がとても気に入りました。移住するならここが良いなと。でも、果たしてここで商売が成り立つのか? とても不安でした」。 そんな心配を余所に、オープン直後から多くの客様が足を運ぶ店となりました。 「雑誌の「Poroco」や「Ho」に掲載されたことは大きな宣伝になり、とても感謝しています。 札幌圏の方も来てくださるようになりました。ですのでお陰様で夏は順調でした。でも、冬が心配だった。ところが、今度はインバウンドのお客様もたくさん来てくださるようになりました。 シンガポール・タイ・台湾の方が多いです。 海外のお客様は積極的にGoogleにコメントを入れてくださいますので、それをご覧になったお客様がまた来てくださいます」。 予約専門のお店のため、来店者数に合わせて仕込みができるのも強みのようです(席が空いていれば飛び込みも受け付けてくださるそう)。 「どのお料理も素材の味が最大限に生かされていますが、取引先の生産者さんはどのように選ばれているのですか?」 「洞爺湖に引っ越してきたのは2023年の2月で、店のオープンは4月でしたので、野菜は根菜くらいしか手に入らない時期でした。お米は移住前から財田米を食べ比べ、宮内農園さんのお米を食べて「この美味しいお米なら洞爺でお店が出来る」と確信を持てました。宮内農園の佐々木ご夫妻には他の農家さんをご紹介頂いたり、自分達で道の駅で買って美味しかった農家さんにアポを取ってみたりとオープン前は奔走の毎日でした。出来るだけ地元の食材を利用し、地元の方にこんな美味しい食材が地元に有ったんだ!と再発見していただけるようなお店を作っていきたいです」。 特別なものを使うのではなく、地元の方がよく食べているものを使いたいという考え方は素敵だと思いました。 「地元食材を使いながらも、今まで無かった店、今まであまり食べる機会が無かった料理を、職人技で提供する店になりたいと考えています。 とは言え、いまは未だ試行錯誤の段階です。 地元の方に足を運んでいただくためには地域性も大切にしなければいけませんから」。 「ところで、お二人にお尋ねします。移住して良かったなあ〜と思う瞬間てどんな時ですか?」 「最高の食材がすぐ身近にあることが幸せです。 娘がのびのびと成長していると感じる時もまた移住して良かったと感じます」。と悠佑さん。 「洞爺湖を眺めながら大好きな温泉に入っている時です!笑」と美佳さん。 明るい美佳さんは早くも常連さんの人気者です。 「最後に目指しているスタイルがあればお聞かせいただけますか?」 「洞爺湖ならではの和食の店を確立したいです。この素晴らしい借景の中で、洞爺湖でしか食べられないものを提供したい。そのためにも、もっともっと洞爺湖のことを知りたいですし、洞爺湖の食材のことを研究したいです」。 そう力強く語った中村さんの元に、保育園から帰ってきた娘さんが「ありがとうございます!」と言いながらニコニコと現れました♡ ―湖の膳舎 なかむら 情報― 電話 080-9269-2578 住所 北海道虻田郡洞爺湖町洞爺湖温泉186-85 Instagram https://www.instagram.com/nakamura0321?igsh=MWR1bm9ieTBya28yNw==
Rietty
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