
じもとブロガー
観光・体験 記事一覧
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2025/07/15(火) - 観光・体験
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東京モダン建築さんぽ(2)・・・新橋
【ニュー新橋ビル】 新橋駅を「蒸気機関車」のある広場側に出ると、左側に「ニュー新橋ビル」がある。 名前は「ニュー新橋」であるが、竣工は1971年で、相当に古い。 建物はRC構造で、地上11階、地下4階である。 低中層階の地下1階から4階までは、飲食店、商店、金券ショップ、マッサージ店など、サラリーマン相手の店舗が入っている。地下2~3階は郵便局や駐車場で、高層階の5~9階はオフィス、10~11階は1~2DKの住宅になっている。 特に1階には金券ショップが多く、いつもサラリーマンで賑わっている。 商業区画の雰囲気はレトロ感覚いっぱいで、「おやじビル」の愛称がある。 このビルの歴史を辿ると、『第二次世界大戦終結直後、新橋駅西口にはヤミ市が生まれた。当初は不法占拠の露店が大半を占めたが、やがて当時の港区長であった井出光治が設立した、後に当ビルの建築主となる新橋商事や、テキ屋の関東松田組により、木造平屋長屋形式の「新生マーケット」が設立されたが・・・』 『1946年に警察と暴力団の連合体と、華僑武装集団の抗争事件に巻き込まれ消失した。 1961年12月に市街地改造法に基づく新橋駅西地区の都市計画事業が決定され、1971年2月に竣工した』のである。 かなり老朽化が進んだので、建て替えの必要が出て来た。 当初は2023年頃の完成を目指していたが、2022年になっても閉館しておらず、具体的なスケジュールはまだ発表されていない。しかしニュー新橋ビルは建物が「区分所有」となっていて、約320人もいる「区分所有者」の合意形成ができず、建て替えが進まない。 「ニュー新橋ビル」は2018年3月に東京都が公表した耐震診断の結果では「震度6強~7の地震により倒壊・崩壊の危険性が高い」とされている。 いつもサラリーマンで混み合っているこのビルが、もし震度6強の地震に襲われたら、相当の死者が出るに違いない。 【新橋駅前ビル】 新橋は東京BRTが開通してから、私には身近な場所になった。 東京駅に向かって新橋駅の右側に、古びた「新橋駅前ビル」がある。 このビルも古い。1964年の東京オリンピック後に、市街地改造事業が行われ1966年に竣工した。 建物は1号館と2号館があり、1号館は地上9階、地下4階、2号館は地上9階、地下3階となっている。地下からは汐留に通じる通路にも接続していて、とても便利である。 この飲食店街は新橋駅を挟んだ向かいにあるニュー新橋ビルとともに、「サラリーマンのオアシス」として知られている。 ここは地下1階から地上2階にかけて店舗が入っている。地権者の店舗の他、東京都による分譲も行われた。外観は「プロフィリットガラス」と呼ばれる、縦に溝の入ったガラスの格子状の外観が特徴的である。 このビルも建築後60年も経っているので建て替えの話が出ているが、なかなか進まない。再開発計画は2015年に検討委員会、2017年に協議会、2024年には地権者向け説明会も開催された。 2025年に準備組合が正式発足し、地権者合意形成の段階だそうだ。 竣工はいつになるか不明だが、一方で「レトロな建物が消えて行く」のも寂しいものだ。 ここでビルと有名人の話にする。 この場所は昔は「狸小路」と呼ばれていたので、今でもビルの入口には大きな狸の像が立っている。2階の「ビーフン東」は池波正太郎の贔屓の店だったそうだ。 ここはたびたび映画やドラマに登場する。 『映画「ゴジラ」1984年)では、田中健演じる主人公が勤務する新聞社屋として、映画「男はつらいよ寅次郎の休日」(1990年・第43作)では、吉岡秀隆と後藤久美子が新幹線に乗り逃避行するシーンで・・・』、 『德永英明の挿入歌とともに流れる東京の景色として登場。映画「東京原発」(2004年)では、ビル外観がゆりかもめ駅とともにロケで使われている』。 建物は人間と違い、「古い」だけで価値があるようだ。 【ヤクルト本社ビル】 「東京モダン建築さんぽ」の本では「ヤクルト本社」と出ていたが、ヤクルトは2020年に「ウォーターズ竹芝」に移転している。ここには多目的ホールの「ヤクルトホール」があり、2020年まではヤクルト本社が運営していた。 プロ野球の東京ヤクルトスワローズの新入団選手記者発表や、ファンクラブ関連行事などに利用されていた。またフジテレビの平日正午台の公開・収録も行われていた。 ヤクルトが竹芝に移転後は日本消防協会が借りて、2024年まで「ニッショーホール」という名で運営していた。現在はビルの老朽化の為に使用されていない。 本の中では写真にある鉄骨構造の階段がデザイン的に素晴らしいとの評価だった。
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2025/07/14(月) - 観光・体験
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小さな話(30)
【江戸のカリスマ商人(1)】・・・(前田正甫) マンションの友人から「江戸のカリスマ商人」という本を借りて読んだ。 「蔦屋重三郎」から三越の始祖の「三井高利」まで12人が登場するが、富山藩二代目藩主の「前田正甫」が面白かった。 彼は日本中に置き薬を広めた男で、私は結婚後もお世話になった覚えがあったからだ。 薬箱を無料で家庭に置いて行き、1年に1回、訪問して使った薬の料金を回収して、不足の薬を足していった。 私の定かでない記憶を辿ると、家に行商に来ていた人達は次のような業種だった。 「富山の薬売り」、「千葉から野菜の担ぎ屋」、「山梨からブドウ」、「近く農家から卵」を売りに来ていた。 このブログを読んだ若者がいたら、「本当かよ?」と言われそうだ。 【江戸のカリスマ商人(2)】・・・(豊島屋十右衛門) この本の中に思い掛けない人物が出ていた。それは豊島屋十右衛門で、私の中高時代の同級生の先祖だった。20年以上も前だが多摩湖近くにある、彼が社長の豊島酒造の工場見学をさせてもらったこともある。 豊島屋十右衛門は日本で最初に「居酒屋」を始めた男で、彼のアイディアで大儲けをしたようだ。当時は関西から送られて来る酒は「下りもの」といい、とても値段が高かったがそれを原価で販売した。しかしこれにはカラクリがあり、酒の入っていた空樽は酒の仕入れ価格の10%で味噌屋や醤油屋に売れたのである。 また女性が大ぴらに酒を飲めない時代に、「白酒」を桃の節句に飲む習慣を作ったのである。当時は「山なれば富士 白酒ならば豊島屋」と、詠われたほどの大店だった。 【区議会傍聴】 都議会選挙が終り、話題にこと欠いて中央区議会の一般質問の傍聴に行って来た。 かなり前に伊達市のXさんから、中央区の議員選挙に立候補するTさんの応援を頼まれたことがある。幸いにTさんは当選したので、Xさんの様子を議場で見ようと思い立ったのである。 傍聴席は70人分くらいあるが、この日の傍聴者はたった3人だけだった。 午後2時に始まった議会は共産党の女性議員が資料を見ながら、約20分くらい質問した。質問に対する回答者も資料を読み上げる。全然、面白くない。 写真撮影・飲食・帽子・襟巻・外套・ハチマキ・タスキは禁止だった。 【べらぼう展】 中央区の新しい図書館である「本の森ちゅうおう」で、「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の世界観に触れることが出来る展示会が開催された。蔦重は中央区に縁があったので、区役所は色々な企画を出して来る。 展示は「番組紹介パネル」、「キャストビジュアルロールバナー展示」などであるが、私が興味を持ったのは「べらぼうの世界を背景に撮影できるフォトコーナー」だった。 開催場所は1階の「多目的ホール」だったが、誰も見に来ていない。 NHKとの協賛らしく、「支えているのは受信料制度です」などと宣伝臭が強く感じられた。 大きな画面が設置されていたが、そこで放映されいるのはNHKの番組の宣伝だった。 肝心の「フォトコーナー」だったが、一番奥に飾られた大きなパネルの前で自撮りするだけだった。 【ハマナスの実】 中央区には4ヵ所の図書館がある。 いままで私は月島図書館に行っていたが、古くて汚いので新しく出来た晴海図書館に行くようになった。家から都道2号線の脇の歩道を歩いて行くと、晴海フラッグの少し手前に「ハマナス」の植えてある場所がある。 森繁久彌が歌って大ヒットした「知床旅情」の歌詞に出て来て、初めてハマナスという花を知った。私がハマナスを初めて見たのはもう20年ほど前のことだが、北海道の噴火湾のアルトリ岬の海岸だった。 「ハマナス」は寒い地方に育つと思っていたのに、この異常気象の暑さの中の東京でも咲くとはどうしたことか? しかも実がなっている。 知らなかったが「ハマナス」は漢字で「浜茄子」とはびっくりだ。 (おまけの話)【花王ミュージアム】 「どこか行くところがないかなー?」とネットで検索していたが、工場見学というものに出会った。以前に鉛筆工場を見学して面白かったことがあるので、あまり遠くない工場を探した。 すると「花王ミュージアム」というサイトがあり、工場見学ではないが見に行くことにした。サイトを見ると1回の募集人数が15人と少ないので、なかなか空きがない。 7月7日(月)の午前10時に4人分の空きが見付かったので、すぐに申し込んだ。 場所は亀戸近くで、自宅前から都バス「亀戸行き」の8時53分に乗り、東京スカイツリーの少し先の「福神橋」で降りた。 「花王」という名は誰でも知っていると思うが、その名前の由来が面白い。 花王のサイトには『花王株式会社の前身は、1887年に長瀬富朗が創業した洋小間物商・長瀬商店です。1890年に花王石鹸を製造・販売しました。顔も洗える高品質の国産石鹸誕生の想いを込め、当時、化粧石鹸が「顔洗い」と呼ばれていたことから「カオ(顔)石鹸」と名付け、「花王」という文字を当てました』と書いてある。 時間になり2組に分かれて案内が始まったが、私の組には車椅子のおばあさんが2人もいた。だからノロノロとなかなか進まないし、ガイドの女性と昔話ばかりしている。 それも分かる。なにせ聞こえて来たのは『私は90歳だから、花王の製品はみんな知っているよ!』だった。 ミュージアムはパネル表示と歴代製品展示が多く、最近の動画による展示方法を採用していない。時代別に展示してある製品は、私の人生で使っていたものばかりだ。 今も多く使っているので、私はガイドに『私はずいぶんと花王にお金を払っている』と言ってみたら、恐縮して『ありがとう御座います』と返して来た。 1時間弱の見学を終ったら、帰りにお土産に「ビオレ 泡ハンドソープ」をプレゼントされた。残念なのは、このミュージアムは7月いっぱいで閉鎖になるそうだ。 高齢者には懐かしく、面白いミュージアムなんだが・・・。
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『染まらないために染める』パンチラインな大和魂 〜異端児染師Aizome『I』
作務衣を纏った渋めの男性が現れると思いきや、目の前の染師は2パートに刈り上げたヘアスタイルの、抱いていたイメージとは程遠い方でした。 そのカッコいい雰囲気に釘付けになったところから取材は始まりました。 人生、何がきっかけで何が起こるかわからない。 金子夫妻と話をしているとつくづくそう思います。 「藍と出会って人生が変わった。」 今回お話しを伺ったのは、そうきっぱりと言い切る金子智志さんと愛さんです。 本当にこんなところに工房があるのだろうか…? 地図を頼りに探し当てた工房のある土地を見て驚きました。 湿地と田んぼに囲まれた広大な土地。 そこには、小屋を含め廃屋が何軒も建っていました。 「え!? こんな場所があったんだ!!」 それが筆者の第一声。 けれども同時に思ったこと。 それは〜。 「このお二人はなんて大きな夢を抱えているんだろう!」 ということ。 どんなに広い土地が欲しくても、この状況を見たら恐らくは誰もが諦めるだろうと思います。 なによりも廃屋の数が多いので壊すのが大変。 構築物も多い庭は広すぎて手入れも大変です。 ここを買うのは、たくさんお金を持っている人か、夢が大きく手入れが苦ではない人だと思いました。 現れたご夫婦と出会い、一目でこのお二人は後者だと直感しました。 ヒップホッパーが染師になると決めた日 金子愛さんは、伊達紋別駅近く「クリーニングのかねこ屋」の娘として生まれ、ピアノ教師を生業にされて今年で21年目。 その愛さんがパートナーとして選んだのは、ヒップホップに勤しみMCを生業にすることを志していた智志さんでした。 出会ったのは、その智志さんが夢をあきらめ、故郷の伊達市にUターンし、その後しばらくした頃のことでした。 「12年前、札幌から帰ってきてからは建築業に就いていました。」 そう話す智志さんの口から出てくる言葉は、とにかくイチイチ面白い! 韻を踏むような言葉がポンポンと出て来ます。 さすが、MCを目指していた方! 「僕、言葉が大好きだし大切にしているんです。ヒップホップをやっていたので、韻を踏む言葉の並びで、複雑な心の動きや物事の状況をバシッと表現するのが好き。そういうのパンチラインて言うんですよ。でもね、『言葉より藍!』と確信する出会いがあったんです。 藍に出会ったのは6年前でした。ニューヨークで寿司屋をやっている友達と会ったのですが、彼はアメリカに住みながら、日本人としての紺色にこだわりを持っていました。『和の心』を紺色=ジャパンブルーに求めていたのです。その時、僕の中に何か響くものを感じました。その日から、頭の中が紺色でいっぱいになりました。黎明館(藍の体験館)に通ったり、独学で学んだりしてすっかりと『藍』にハマってしまったんです。」 へ〜! パンチライン! 初めて耳にする言葉です。 最初は少々緊張していたお顔の智志さんでしたが、徐々に頬を緩め、次々とパンチラインをちりばめて語り始めました。 「とにかく藍染にハマって、3年間独学で染めていました。でもどうしても独学には限界がありました。そこで3年前、徳島の『BUAISOU』の研修生に応募しました。全国でわずか3名の狭き門に合格して研修生になることができ、12日間の研修をさせていただきました。そして、どうしても迷いがぬぐえず自信が持てなかった僕のやり方を『それでいい』とお墨付きをいただくことができたんです。嬉しかった。ようやくこのまま突き進んでいいんだ!と自信が持つことができました。」 『BUAISOU』について 世界各国からワークショップの依頼が殺到し、ハイブランドとコラボし、グローバルな活動をし続ける徳島の藍染工房です。 徳島県を拠点に、藍の栽培から染色、仕上げまですべてを一貫して行うBUAISOUは、古き良き伝統をそのまま受け継ぐのではなく、常に進化をし、先人たちをリスペクトしながらもそれを超えていく努力を続け、未来に繋ごうとしている。 わずか5人で運営する工房は、2015年4月されました。BUAISOUの名は、白洲次郎の邸宅「武相荘(ぶあいそう)」にちなんだものだそうです。 Bluem の誕生 ところで智志さん、『BUAISOU』研修においてお墨付きを得られたものの、しばらくは染師と建築の仕事の草鞋を二足履いていました。 けれども次第に口コミでオーダーが入る様になり、二足の草鞋を履いていては藍染の仕事が追いつかない状況になりました。 技術の確かさも証明されました。 それは「伊達美術協会」から表彰された『協会賞』という最高賞。 月と海、人間と自然を表した作品。 タイトルは『183672144288』 タイトルの意味はこうでした。 〜人と月と海の共通となる数字『18』。その18の倍数が人間の『生』を表し、目には映らない人と自然のつながりを人類が最も信頼し、裏切られてきた『数字』で表現しました〜 18:1分間に月が引き起こす波の回数=人間の1分間の呼吸の回数 36:人間の平均体温 72:人間の1分間の心拍数 144:人間の最高血圧 288:日数に変えると10月10日で妊娠期間と同じ 「人間が最も信頼し、裏切られてきた数字」この言葉だけで俄然実物を観てみたくなりました。 6月3日より2ヶ月間、「だて歴史文化ミュージアム」において展示会が開催されます。 「本格的に染師として生きていきたいと考えていたので、そのためにも自分の工房が欲しい!と思っていました。工房にする場所をずいぶん探したのですが、タイミングや予算も含め中々『ここだ!』という所に出会えなくて…。 がっくり‥としかけた一昨年の冬、出会ったのがこの場所でした。見に来たら一目惚れ。だいぶ荒れていましたが迷いはありませんでした。実はここ、子どもの友達のおばあちゃんの家だったところなのです。妻がそれを思い出してくれ、購入に結びつきました。」 昨年6月、ついに念願の城が手に入りました。 金子さんご夫婦にとっては夢に向かうThe 1’st stage『Bluem』です。 “ Blue “ × “ Bloom “ つまり青=藍 と開花。 藍で笑顔の花を咲かせたい! 藍で自分たちも開花したい! そんな想いが込められていました。 韻を踏む言葉が大好きな智志さんらしいネーミングです。 「『Bluem』は『藍』製品をカッコいいものとしてブランディングしていく場だと考えています。異文化交流はもちろん大事です。でも日本人として異文化を受け入れながらも、大和魂というか、『和の心』を『藍』を通して表現したい。だから『染まらないために染める』んです。ここを『まちのハブ』として育てて、いろんな人たちと繋がりながら行動して、自然を尊ぶ日本人のDNAを呼び覚ましたいんです。」 循環型ファッションを目指して ところで、今までの経済合理性は短期的にも長期的にも継続は難しい状況だと言われています。 そんな中、若い人を中心に高まってきたのが「気に入ったものを修理したり、染め直したりして長く使いたい」というニーズ。 衣料メーカー自体が「お客様に頻繁に買い替えさせる売り方ではなく、アフターケアを軸に『3つのR』をビジネスモデルの根幹にしていると言われています。 R:リユース(再利用) R:リデュース(使う資源を減らす) R:リサイクル(再資源化) の3つです。 「僕は自然のこと全然詳しくないです。SDGsとかもよくわからない。まあ持続可能な社会を目指そうということですよね。でも思うんですよ。藍もそうですが、人間は自然の恩恵なしには生きていけない。食べ物だってなんだって素材は全て自然が与えてくれています。でも、人間の勝手で飽きたり汚れたりすると簡単に捨てられてしまう。元は全て命なのに。そんな傷んでしまったり、汚れてしまったりしてしまったものを藍染によって甦らせることができるんです。幸い妻の実家がクリーニング屋なので、汚れやシミはしっかりと取り除いてから、新たな命を吹き込むことができる。おまけに堅牢性も増します。モノを大切に残すためのお手伝いができるのも幸せを感じることです。そうそう!あるピザ屋さんの窯から出た灰も藍染めに使えるんですよ。灰だって元は木。いただいた命に感謝して、最後までできるだけ捨てず使わせていただきたいと思っています。子どもたちの子ども、もっと未来の子どもたちのためにヒトが生きる源の自然を、僕らの役目として僕らの仕事で残して行きたいです。そう、『サスティナブルー』な仕事として。」 最後は韻を踏んで締めてくれました。 智志さんの中では当たり前の活動から生まれる循環。 ヒトもモノも自然もとても大切にされているお人柄が窺えるお話しでした。 人との出会いを一つ一つ丁寧に心に刻んでいるからこそ繋がっていく糸。 きっとお二人の出会いも…♡ 何度かその話を振りましたが、どうやらお二人だけのシークレットのようです ^^ お話しをしていて感じたのですが、ご夫婦のお人柄が多くの素敵なご縁の糸を手繰り寄せている気がしてなりません。 それを証明するかのようなイベントが、昨年の夏に開催された初イベント「草紙奏藍」でした。 先の見えないコロナ禍真っ只中、子どもも大人もみんなが疲弊してどんどん笑顔が少なくなっていく状況に、心を痛めていた金子さんご夫婦が立ち上がり開催されたのが、この『草紙奏藍』でした。 結果大盛況でしたが…。 思いついたのはいいけれど、正直他の作業もあり気持ちはいっぱいいっぱい。 広すぎる庭の草刈りはおろか、イベントに際しての環境整備もままならない。 途方に暮れそうになった時、助けてくれたのは、金子夫妻の活動を見守ってきた地域の方々や友人たちでした。 中には遠方から駆けつけてくださる方もいました。 畑違いの仕事から飛び込んだ『藍』の世界でしたが、元々のお二人の仕事や趣味の人脈のおかげで、予想を遥かに超えるお客様にお越しいただき、イベントは大盛況のうちに終わることができました。 もちろん、評判は上々。 きっと、今年の夏も期待されているのではないかと思います。 「今後もイベントは色々開催していきたいと考えています。全国シェア2位と呼ばれる篠原さんの藍の生産と“すくも”に加えて、染師としての技術や製品もグローバルに羽ばたかせて行きたいです。まずは「藍の町」伊達を歩く人たちの服や小物を藍色に染めたい!と思っています。」 2時間に渡った取材は、お話し上手な智志さんに乗せられ、素敵すぎる愛さんの笑顔に乗せられ、楽しくて楽しくてあっという間でした。 その楽しさはきっと、お二人に関わった方皆様が感じることだと思います。 I (藍)の形をバトンになぞり。 I (私)が染師として。 大和魂のI (愛)を届ける。 きっと、最後の『愛』は妻の愛さんと共に〜の意味が込められていることと思います。 AIZOME「I」 / Bluem 情報
Rietty
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ふらり旅人からのゲストハウス 自由人 小林圭子氏 〜想いと直感のままに『ポンコタン』
今回の主人公は洞爺湖の近くでゲストハウス『ポンコタン』を営む小林圭子さん。 旭川出身の47歳。 洞爺湖に移住する前は名古屋で商売をされていました。 「北海道には30代後半からバイクにテントを積み、 ふらりと旅しに来ていました。」 洞爺湖との出会いは、 2018年に「幸せのパン」の映画の舞台になったところを見てみたくて 青春18きっぷでふらりとやってきたのが初めてでした。 ところで圭子さん。 なんと言うか・・・。 「以前、どこかで会いましたっけ?」 そんな錯覚を起こさせる人です。 あの、バリアフリーな雰囲気は一体どこからくるのだろうか? 探ってみたくなりました。 旭川から札幌へ。 そしていきなりポン!と名古屋へ飛んだ圭子さんが始めたのは、 なんと”バナナ焼き屋“のお店でした。 店の名前は「パピリカ」。 それはアイヌ語で「豊作」という意味です。 バナナ焼き屋をやろうと思った理由は〜。 「小さい頃から食べていたソウルフードだったから」 ただそれだけの理由で、 古くからお菓子文化が発達している(駄菓子の製造所も多い)名古屋で店を出そうとは、 普通はなかなか考えつかない。 でもそれをひょいっと始めてしまうところが圭子さん流。 深くは悩まない。 やりたいからやる。 ただそれだけ。 そんなシンプルさが、度胸を超えた何かを感じます。 パピリカ時代のHPを見つけました。 熊が鮭ならぬバナナを咥えている姿が なんともユニークで忘れないロゴです。 何事もサラッと話す割には材料にはかなりこだわっています。 卵も牛乳も使用していないので(カスタード以外)、 卵アレルギーや牛乳アレルギーの子どもを持つ親御さんも よく買いに来てくれたそうです。 そして白餡はしっかりと手作り。 バナナ焼きと言えば旭川の名物お菓子。 この時お話を伺うまで知りませんでしたが、 旭川のバナナ焼きにもバナナそのものやバナナエッセンスなど、 バナナフレーバーは一切入っていないそうです。 バナナ焼きとは、形からだけ連想するネーミングのようです。 とても美味しそう〜! 食べたかった〜! パピリカはすぐに地元に溶け込み、 8年間営業を続けました。 その時の繋がりは今も続いていると言います。 人懐っこいと言う表現とも違う、 相手に壁を作らせない不思議な力を圭子さんは持っています。 「いろいろなところから転勤してきた人たちが多く住むところでした。 近所の方がよく買いに来てくださっていましたよ。 家賃を払いつつ、 女ひとりが食べるだけの分はなんとか稼げていました。」 「ところで、ポンコタンは小さな村という意味。 パピリカは豊作という意味ですよね? どちらもアイヌ語ですが、なにか特別な意味があるのですか?」 そんな筆者の質問に 圭子さんはまたもやあっさりと答えます。 「いや、なんとなくです。」 まただ…。 やはりこんな調子…笑 筆者はその言葉の背景を知りたい!と質問をしても、 決してはぐらかす訳ではなく、あくまでもサラッと答える。 想いが至極シンプルだからこそ、 きっとその時の直感のまま「なんとなくそうしよ」と 思った通りに動いてしまうのだろうと思います。 しかも、転機にはだいたい誰かが力を貸してくれる。 これはもう人徳です。 気負わず流れに任せるというのは、実は楽そうで楽ではない。 でも圭子さんは素直に誰かの力を借りながら、 とても自然にその技を使ってしまう。 「名古屋の友人がゲストハウスをしていたんです。 あらたに宮古島でゲストハウスを始めるにあたって、私も少し手伝いました。 その友人は度胸があるというかなんというか、 外国人が結構泊まりに来ていたのですが、英語は喋れないんです。 でもなんてことなくやっているのを見て、 私も妙な自信をつけてしまいました。 『そうか、英語ができなくても宿屋はできるんだ』 ってね。」 「その辺りから、ゲストハウスに興味を持つようになりました。 ちょうど、ふらりと洞爺湖へ足を運ぶ機会も増えていたこともあり、 洞爺湖の近くでゲストハウスをやることが ふわっとしたものから現実的になりました。 あ…その前にバナナ焼き屋を畳まないと。」 そう思った時、 店を丸ごと買いたいと申し出てくれた人が現れました。 それは元々はお客様だった友人で、古民家カフェを営んでいる方でした。 バナナ焼き屋営業終了2日後には洞爺湖に移住してしまうというスピーディーさ。 思ったらサラッと行動! その後、1年半をかけて建物をリフォームし、ポンコタンを開業されました。 「待っていてくれているような気がしていました。 洞爺湖はどっしりとしていて迎え入れてくれるような安心感がある湖だと感じています。 移住してすぐは、キャンプ生活をしながらあるホテルでバイトをしていました。 同時に物件探し。 そんな中、即決したのがこの建物でした。 借金も1000万円以上してしまいました。」 この建物は、昔、ある会社の社員寮だったところ。 なので、一部屋一部屋にトイレが付いていました。 さて、ゲストハウス「ポンコタン」は 内装・外装そのほとんどをDIYしています。 もともと建物に興味があったわけでもなかった圭子さんですが、 もの作り好きであったことが功を奏しました。 「必要に迫られた部分もありますが、 バナナ焼き屋時代に建物の内部構造にものすごく関心を持つようになりました。 そもそもは工事関係者への不満に端を発したのですが、 お陰で建築について色々知ることができました。 建物がどんなふうにできているのかを知るために、 分解しながら構造を理解していきました。 コンクリートにネジを入れるにはどうしたらよいか?とかね。」 冒頭に登場した仕切りに描かれた洞爺湖の絵は、名古屋時代の友人が描いてくれたもの。 「名古屋時代の友人たちは変人が多くて(笑) 尋ねてきては色々置いて行ってくれます。」 困ったふりをして、笑いながら話す圭子さんには、 遠くから支えてくれる友の存在に感じる安心感が表れていました。 圭子さんの仲間たちは、 「ポンコタン」のオーナーの とてつもなく自然体なおもしろキャラクターをよくご存知のようです。 「うちね。コンセプトなんてないのよね。」 圭子さん、突然、そうサラッと言った後でこう続けました。 「よく眠れました!って言ってもらえるのが一番嬉しいかな。 旅の途中で快適な時間をここで過ごしてくれたら、 それが一番嬉しい。 それとね。 今年の夏はすごく忙しかったのね。 借金あるからあと10年はやらないといけないけど、 とりあえず持続可能な宿を目指して働き方改革するわ(笑)」 「10年経ったら何するの?」 そんな問いに。 またもやサラッと 「わからないな」 と答える圭子さんでした。 帰り際 「また来て!」 と軽い調子で言われました。 「うん」 と答えてしまいました。 ポンコタンの魅力は この気安い感じなんだろうと思った筆者でした。 決して気負うことなく、 そのまんまの圭子さんが妙な安心感を与えてくれる取材の時間でした。 ゲストハウス ポンコタン 〒049-5721 北海道虻田郡洞爺湖町洞爺湖温泉97 080-6092-4967
Rietty
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