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2025/04/01(火) - その他
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任那日本府
第二次世界大戦の頃、 天皇を国家の中心に祭り上げた日本軍部は、 天皇が「神様」だった時代の歴史書、 「古事記」や「日本書紀」をことさら重視していたようで、 アジア各国の植民地化政策を進めたとされていますよね? 真実は微妙な部分はありますけど…。 「日本書紀」の中に、朝鮮半島南部の任那(みまな)という地に、 「日本府」と呼ばれる役所が存在した、 という記述が複数回出て来ます。 この「日本府」が、 倭国人が朝鮮半島を支配するためにおいた役所であると長い間考えられて来た…。 軍部は「神の国」日本が、 古代から支配して来た朝鮮半島を 再び支配する事に何の不都合もあるまい、 と理屈をつけて、 植民地化政策をゴリ押ししたようです。 この「任那日本府」の存在は、 戦争が終わってからも、 20年近く信じられてた。 既に、歴史の真実として日本人の頭と心に深く刻み込まれていたようで…。 1963年になって、 北朝鮮の学者が「任那日本府」は存在しなかった! とするセンセーショナルな見解を発表した。 むしろ朝鮮半島の人間が、 日本へ移住し日本に分国を作っていた!というのさ…。 続いて、韓国・朝鮮の研究者たちが、 その地域を支配したという証拠はどこいも書いていないという結論が出た。 また、「日本書紀」に日本府の記事が出て来た 欽明天皇の時代には、 国家を表す名称としての「日本」という言葉はまだ成立していなかったのさ…。 それでは何故、「任那日本府」の存在が、 広く信じられていたのでしょうか? 「日本書紀」に書かれる以前の414年、 同じく朝鮮半島の高句麗に建てられた広開土王碑に、 倭国が、百済・新羅・任那の三国を支配した、 と解釈出来る文章が書かれていた事や、 仲哀天皇の妃の神功皇后が、 新羅に出兵して平定したという伝説が根拠としてあった…。 これが、軍国主義の下、誤った歴史観に発展したらしい…。 最近では、朝鮮半島南東部の考古学的発掘調査もさかんに行われている。 その頃の任那が倭国と密接に繋がっていた事を示す、 倭国製の銅器や玉製品等も数多く発見されていて…。 さて、あなたの今回の運勢はいかに?
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2025/04/02(水) - 観光・体験
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写真で見る東京(85)・・・春のうららの「豊洲ぐるり公園」
やっと本格的な春がやって来た。気温も20度近くになり、外へ出ても気持ちが良い。 そこで「豊洲ぐるり公園」に行って、のんびりしようと考えた。 マンション1階のマルエツで「カツサンド」を買い、東京BRTに乗って「豊洲市場」で降りた。そこから少し戻ると「豊洲ぐるり公園」がある。 天気が良く、気温も丁度、気持ちが良い。青空も綺麗だ。 広い遊歩道を歩いて行くと、右手に東京オリンピックの時の選手村が見える。 現在は分譲住宅となり近隣よりは比較的に安かったのか、人気の場所のようだ。 選手村の広報にはブルーのストライプの入った、私の住むマンションも見える。 久し振りにここへ来たら、新しく「船着場」が作られていた。 よく見ると「江戸前ピア豊洲」と看板が出ている。 これは豊洲市場の付帯設備で完成した温泉施設の「先客万来」の船着場のようだ。 ここから屋形船に乗って、お台場などの周遊観光をするようだ。 私は先に進む。公園の先端までは、豊洲大橋から約1キロ近くある。 そこには階段状の木製の椅子があり、多くの人達がここで休む。 私もここが好きで、一番上の段に座った。 気温は少し寒く感じるが日差しが暖かく、頬を撫でる風が気持ち良い。 持参した本を取り出し読む。 11時30分を過ぎたので、買って来た「カツサンド」を食べる。 お茶も持参しているので、デザートに買って来た小さな羊羹を食べる。 なにも考えることも無く、ただただボーとして海を眺めている。 青い空、青い海。こんな光景を見ていれば、目にも良いかもしれないと思う。 目の前では2人の釣り人が竿を海に入れている。 いつまで見ていても、全く釣れない。その内に2人は階段のところに来て、昼寝をしてしまった。散歩をする人、ジョギングをする女性、犬の散歩をさせている人がいる。 レインボーブリッジの上を走る車を、ボーと見る。私はいつまでもボーとしている。 階段椅子の上に上がってみた。 その後ろはバーベキュー会場になっているので、若い人達が楽しそうに何かを焼いている。高級そうな自転車で来ている若者がいた。 お互いに離れた場所にいるので、知り合いではないようだ。 みんながそれぞれに自分の好きなことをして、この時間を過ごしている。 至福の時である。「春のうらら」はお金を出さなくても、こんな良いこともある。 (おまけの話) 階段椅子に座って本を読んでいたら、セキレイが歩いて近付いて来るのが見えた。 私は体を動かさずに静かに見守っていた。 セキレイはどんどんと私に近付いて来る。手が届きそうなところまで来た。 それ以上は近付かない。なにか餌でもくれると思っているのかもしれない。 なにももらえないと分かると、セキレイは階段の下から遊歩道へ降り、そして飛び去って行った。 前方の海には、時々、色々な船が通って行く。 それをボーとして見ていた。 レインボーブリッジの方から遊覧船がやって来て、日の出桟橋に向かって行った。 すると目の前の海で休んでいた「ゆりかもめ」が一斉に飛び立ち、遊覧船に群がった。 きっと乗客がなにか餌を投げているのだろう。 暖かい日差しの中で、海を見て、本を読んで、そして鳥を見る。 そろそろ帰ろうと思い、豊洲大橋へ向かって歩いていた。 すると前方で釣り人が何か連れたらしく、タモ網を海に入れたのが見えた。 すぐに近付いてみると、大きな魚が網に入っていた。黒鯛が釣れたのである。 私 『凄いですねー。餌はなんですか?』 釣り人『疑似餌です。魚にも好みがあるようで、なんでも喰い付く魚もいます』 私 『今日は何匹、釣ったのですか?』 釣り人『まだ2匹です』 そして彼は黒鯛をリリースして、また釣りを始めたのである。
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2025/04/01(火) - 観光・体験
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小さな発見(35)
【人形浄瑠璃(1)】 マンションの掲示板に「人形浄瑠璃の公演」が自治会主催でマンション内で行われると、各家庭にチラシで案内があった。私の住むマンションは2600所帯以上も住んでいるから、一般的な自治会とは違うほどの予算がある。チラシには「人形浄瑠璃の世界」、「八王子車人形」、「十返舎一九」などの文字が見える。 「車人形」とは初めて聞く言葉だったので調べてみると、『江戸時代の終り頃に生まれた「山岸柳吉」が考案し、農山村や八王子織物の生産に関る人の娯楽として親しまれていた。それ以前の3人遣いの人形芝居を少人数の座員で簡易な舞台で、「ろくろ車」という車輪が付いた箱型の車に腰掛けて、1人の人形遣いが人形を操れるようにしたもの』だそうだ。 これは国の重要無形文化財に指定されていて、今回の公演では中央区も多額の補助金を出してくれている。 【人形浄瑠璃(2)】 私の住むマンションは2棟建てで、今回の人形浄瑠璃は向かい側のシータワーの3階ロビーで行われた。午後2時から始まった公演は1時間45分であったが、立ち見も含め150人以上が見に来ていた。出演者は太夫1人、三味線2人、人形遣い6人であった。1人で1体の人形を操るのだが、それは見事であった。 人形遣いはろくろ車に乗っているので、移動が素早い。しかも人形の足は床に着いていて、足を踏み鳴らす。だから3人で操る文楽より迫力がある。 一番盛り上がった場面では人形が4体出て来た。 これを文楽でやると人形遣いが12人も出ることになり、とてもこの演目は出来ない。 途中の休憩の前には観客に人形の説明と、実際に舞台で操りもさせた。 今回の演目は「東海道中膝栗毛」で、なんと作者の十返舎一九はマンションとの水路を挟んだ隣の「東陽院」にお墓がある。 【車人形浄瑠璃 YouTube】・・・国指定重要無形民俗文化財 八王子車人形 - YouTube 【バイオ技術の講演会】 3月15日(土)の東京国際フォーラムで、ネット証券会社が投資家を対象の講演会があった。色々な会社が自社の宣伝をするために、講演会を開催するイベントのようだった。 その中に「バイオ」に関する講演があったので、それを聞きに行った。 講演は慶応大学発のスタートアップ企業で、バイオ技術を利用して「脊椎損傷」を改善するものであった。講演時間が20分と短いので、社長も熱心に話をする。 司会者が「時間オーバー」の注意をカンペで知らせている。 現在は「AI全盛」のようだが、引退した私には「AI」より「バイオ」である。 不慮の事故などで人生を諦めていた人がバイオ技術で救われたら、こんな素晴らしいことは無いと思っている。 【銀座教会】 数寄屋橋にある「銀座教会」で、水曜日にパイプオルガンの演奏があるので聞きに行った。石破総理大臣はクリスチャンで、トランプ大統領と同じカルヴァン派の一派の長老派のプロテスタントである。 トランプ大統領は銃撃にあったが、銃弾が耳をかすっただけで命拾いをした。これは当然で、カルバン派では「神から選ばれた人は予め決められている」と考えるのだそうだ。私の行った銀座教会は「日本メソジスト系」だそうだ。 水曜日の午後0時15分から始まる礼拝に行ったら、この日は朝から雪が降ったせいか、 私以外に信者が4人いただけだった。 牧師の話と聖書朗読も簡単で献金も聖体拝領儀式も無く、オルガン演奏は5曲だった。 静かな雰囲気の中で巨大なパイプオルガンの音が響き、心休まる30分間だった。 (おまけの話)【ベトナムのマンゴー】 もうなん年前のことだろう? 25年以上も前のことだと思う。 私の経営していた会社の人手不足に困り、ベトナムから実習生を入れたことがある。 その中にハンさんという、頭の良い男がいた。2年の実習を終えて帰国してからも、連絡は絶えなかった。 彼は私の会社で学んだ技術を使って会社を興し、まあまあ成功している。 10年ほど前に私は彼の会社を訪ねた時に、会社の入口に記念のマンゴーの木を植えた。 今年の3月になり、「たくさんのマンゴーが取れた」と写真付きのメールを送って来た。 ハンさんのメールは次のようなものだった。 『橋本社長さま、 お久しぶりです。社長はお元気ですか? 私達家族全員元気です。この時期、ベトナムでマンゴー果物がなります。社長とマンゴー木を植えた。いっぱい果物がとりました。美味しいです。・・・』 『今年、一回日本へ行きたいですが、ビザを方法教えて。行けばお会いましょう』とあった。外国人と日本語でメールのやり取りを出来るのは、私には嬉しいことだ。 でも変な日本語なので、少し疲れる。 今でもハンさんは私のことを「社長」と言うが、私の方はもう社長だったことは忘れている。
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2025/04/01(火) - その他
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任那日本府
第二次世界大戦の頃、 天皇を国家の中心に祭り上げた日本軍部は、 天皇が「神様」だった時代の歴史書、 「古事記」や「日本書紀」をことさら重視していたようで、 アジア各国の植民地化政策を進めたとされていますよね? 真実は微妙な部分はありますけど…。 「日本書紀」の中に、朝鮮半島南部の任那(みまな)という地に、 「日本府」と呼ばれる役所が存在した、 という記述が複数回出て来ます。 この「日本府」が、 倭国人が朝鮮半島を支配するためにおいた役所であると長い間考えられて来た…。 軍部は「神の国」日本が、 古代から支配して来た朝鮮半島を 再び支配する事に何の不都合もあるまい、 と理屈をつけて、 植民地化政策をゴリ押ししたようです。 この「任那日本府」の存在は、 戦争が終わってからも、 20年近く信じられてた。 既に、歴史の真実として日本人の頭と心に深く刻み込まれていたようで…。 1963年になって、 北朝鮮の学者が「任那日本府」は存在しなかった! とするセンセーショナルな見解を発表した。 むしろ朝鮮半島の人間が、 日本へ移住し日本に分国を作っていた!というのさ…。 続いて、韓国・朝鮮の研究者たちが、 その地域を支配したという証拠はどこいも書いていないという結論が出た。 また、「日本書紀」に日本府の記事が出て来た 欽明天皇の時代には、 国家を表す名称としての「日本」という言葉はまだ成立していなかったのさ…。 それでは何故、「任那日本府」の存在が、 広く信じられていたのでしょうか? 「日本書紀」に書かれる以前の414年、 同じく朝鮮半島の高句麗に建てられた広開土王碑に、 倭国が、百済・新羅・任那の三国を支配した、 と解釈出来る文章が書かれていた事や、 仲哀天皇の妃の神功皇后が、 新羅に出兵して平定したという伝説が根拠としてあった…。 これが、軍国主義の下、誤った歴史観に発展したらしい…。 最近では、朝鮮半島南東部の考古学的発掘調査もさかんに行われている。 その頃の任那が倭国と密接に繋がっていた事を示す、 倭国製の銅器や玉製品等も数多く発見されていて…。 さて、あなたの今回の運勢はいかに?
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2025/03/31(月) - 暮らし
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順調じゃなかった春の思い出
おはようございます☆ 3月31日ですね 出会いと別れの季節 私なんてこの3月31日だったか30だったかは定かではありませんが… 最悪の思い出があるのでした 何もかもが上手くいかずに人生が最悪に感じていた中学3年の3月31日 明日から砂川北高校の野球部寮に入るって日 中学時代の友人たちと最後に遊んで夕方に家に帰っている最中 1つ上の世代の先輩たちと遭遇しちゃったのです 彼らは高校生、私は中学3年の時です 『お前、いつ砂川に行くのよ?』と聞かれ… 『明日です』と答えたのです そしたらね‥ 『うわっ!!今日やんね〜〜と時間ね〜〜〜ぞっ!!!』ってザワついちゃってね… 携帯もない時代なのに不良の先輩たちがどんどん増えちゃって… ボッコボコにやられちゃったよね… 殴る蹴るの暴行とはあのコトです‥ まぁそんな環境を変えたくて地元の芦別市を離れて砂川に行くコトにしたんですけどね なんて最悪な芦別最後の日なんだよ… で、翌日‥ 高校野球の名門 砂川北高校野球部寮に入寮できたのでした このメンバーはみんな親元を離れて遠くからやってきたメンバー達です こんな生意気そうな僕ちんなので前日に襲撃されたのでしょう‥☆ でもね この厳しい寮生活で心身共にタフになったのです で、3年間生き残って晴れて砂川北高校の一塁手として華々しい活躍をしちゃうのでした☆ まぁ順調じゃない環境を経験したからこそ今の私があるワケでね これからも逆境を跳ね除けて逞しく生きて行こうと思います!! にほんブログ村 北海道人気ブログランキングへチャレンジ中 本日もどうぞ宜しくお願いします!!!
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2025/03/31(月) - 暮らし
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友を偲ぶ (1)
(ブログ閉鎖中の話題)2015年3月1日 少し前の2月16日の夕方に同級生のMさんから、久し振りに電話があった。 そして私は電話の内容に驚愕してしまった。 「Hさんが交通事故で心肺停止状態だ」と言うのであるから、驚かないほうがおかしい。その時、私が何を話したかも思い出せない。 Mさんから詳しい話を聞いてみたら、電話があった2日前にHさんは福島県いわき市勿来町に行き、定宿にしている旅館の女将さんにバス停まで車で迎えに来てもらったそうだ。Mさんは勿来町に工場を持っているので、事故を知ったのである。 なぜ彼が勿来町に行ったかと言えば、彼は福島原発事故のボランティア活動で、その旅館のお手伝いに行ったのである。そして旅館までの道を女将さんの運転で走っていて、彼女は追突事故を起してしまった。 気が動転した女将さんは、なんとそのまま車を運転して逃げてしまったのである。 後で分かったのだが、女将さんは飲酒運転だったので、バレるのを恐れたのかもしれない。彼女が逃走中に助手席に座るHさんを見たら、ぐったりして動かなかったそうだ。 助手席のエアーバッグは作動していたが、役に立たなかった。 女将さんは慌てて警察に連絡し逮捕されたが、Hさんはそのまま入院となった。 しかし、その時は既に心肺停止状態になっていた。 私は事故が起きる前日にHさんとKさんを案内して、新宿から巣鴨まで徒歩で東京見物の旅をした。その時にHさんは「東京は面白いねー。まだまだ死ねないなー」と言った。 また、エアーバッグの問題でアメリカで訴えられている日本メーカーの「タカタ」の話も出たが、その翌日にこんなことになるとは夢にも思わなかった。 彼は持病の糖尿病と上手に付き合い、毎日、必ず1時間以上は歩き健康維持に努めていたHさんが事故でこんなことになってしまうとは思いもよらず、私はどうしていいか分からなかった。 酒酔い運転の女将さんを恨みたいし、Hさんが酒酔い運転の女将さんに気が付けば、「運転を代れば良かったのにー」と、後から思い残すことが多くある。 私はいつも自分から「いつお迎えが来ても構わない。心の準備は出来ている」と言っているのだが、自分のことではなく親しい友人のことになると、からっきし駄目である。 人生とは儚く、計画通りには行かず、無残で冷酷だと思い知った日であった。 今までも多くの友人が亡くなったが、こんなにショックを受けたのは初めてだった。 (おまけの話) Hさんには色々な思い出がある。 その頃、友人達の間では、16歳になると車の免許を取るのが流行っていた。 高校卒業と同時に私のオヤジのトヨタのクラウンでHさんと電話をくれたMさん、そして私と兄の4人で東京から鹿児島県の指宿までドライブ旅行をしたことがあった。 55年も前の話である。 現役引退後にHさんは友人3人で福島県小名浜港から、小さなヨットで世界一周の旅に出た。私も女房と見送りに行った。それまでHさんはヨットの趣味は無かったのだから、かなりの冒険だった。「旅先で死ねば本望だ」と言っていたが、1年以上経って戻って来た。 今年の9月には私はHさんとアメリカドライブ旅行を計画していて、ロサンゼルスでレンタカーを借り、ルート66を走り、シカゴから飛行機でフロリダに飛ぶ。 そこでまたレンタカーを借りてキーウェストに行き、ヘミングウェイの面影に触れたいと話していたのである。 人生最後の大型旅行をHさんと楽しむ計画が挫折してしまい、今の私は虚脱状態にある。 この一週間はHさんのことが頭から離れず、いつもの徘徊も出来なかった。 みんなの奇跡を願う祈りも届かず、Hさんは2月21日の朝に帰らぬ人となってしまった。 (合掌)
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